造花の開く頃に

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12月17日

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[12月17日、土曜日]
「……ごめん……ごめん……ごめん…………譲葉くんごめん……」

 キッチンの台所、背中に張り付く収納棚の扉の冷たさ、何時間も見続けている眩みそうな電気の明かり。
 全てが罪悪感を膨張させてゆく。

 ――――左手に、大きな傷は出来なかった。
 少し引いて踏み止まったのだ。やはり、成功率と失敗率を比較してしまうと怖さに勝てない。
 病院で目覚めた時、譲葉が悲しい顔をしていたら。そう思ったら、手首を切り裂けなかった。

 だが、留まった代償として、行動に移しかけた事への深い罪悪感が月裏を苦しめた。
 死を避けるとの誓いは、己の中で勝手に定めたものではあるが、譲葉の為にしたものだ。
 それなのに、自己感情に振り回され、簡単に破った。一瞬だったとしても、譲葉を置いて逝こうとした。

 月裏は我に返って、手当てした左手首を掲げてから、甲を下側に振り下ろした。

 数分後アラームが起動し、月裏は時間の経過を知った。
 不審がられないよう、日課通り譲葉の様子を窺うべく寝室の扉を音もなく開く。
 すると、譲葉が服を脱ぎかけている場面に遭遇した。勢い良く扉を閉める。
 傷を知っている今、逃げる必要性はないのだろう。だが、何故か逃げてしまった。
 にしても、やはり凄まじい傷跡だ。

「月裏さん、着替え終わった」

 タイミングを窺っていると、譲葉に呼ばれた。譲葉は逃げてしまった理由を察していたらしい。
 扉を開くと、譲葉は白い大き目のシャツに身を包み、床に足をつく形でベッドに座っていた。

「……おはよう譲葉くん」
「おはよう月裏さん」

 勘の良い譲葉の事だ、一夜中部屋に戻らなかった事に気付いているかもしれない。
 何か言われたらどうしよう。そう思ったのも束の間、

「……眠ったから随分良くなった」

 と報告されて、月裏はただ笑った。

 今日は共に食事し、リビンで別れを告げ会社に出かけた。
 席について早々、譲葉の体調についてと、約束を破りかけた罪悪感と、中々実現しない上司の噂についてばかり考えてしまっていた。
 火蓋が切って落とされた瞬間、隅に寄ったが。

 塀と塀の間の、外灯も届かない道を歩く。暗鬱な未来を比喩するならこんな感じだろうか。
 時々ぼんやりと一箇所を照らす光は、途中途中に垣間見える幸せで、先に進めばまた闇が待つ。
 これからの未来どころか、これまで繰り返してきた人生にそっくりだ。
 歩んだ道の向こうに、ライトアップされた世界はあるだろうか。

 鉛のように凝り固まった足で階段を一歩ずつ攻略し、糊付けされて居るような扉を開く。
 決まった位置で靴を脱ぎ、廊下を辿って奥の部屋へ行く。寝室の灯りは点いている。

「……譲葉くん、ただいま……」

 開いた時、目の前に譲葉の姿はなかった。だが、喘ぎ漏れる声が聞こえ直ぐ反応する。
 譲葉はまた、床に転がり苦しんでいた。体を丸くして両腕で頭を抱えている。
 明らかな重症度に、月裏は硬直してしまった。直ぐに対応を!と頭は急いているのに体が動かない。

「…………薬……」

 薬品を飲み込む為の水を調達しに、リビングに足を向ける。何の声もかけないまま離れるなど、まるで置き去りにするようで気分が悪かったが、月裏にはそうせざるを得なかった。

 部屋に戻った時には、声は止んでいた。だが体勢に変化は無く、床に落ちたまま脱力している。

「……譲葉くん、これ飲める?」

 シートから出した錠剤とコップに入った水を手に屈みこむと、譲葉の表情に目が奪われた。
 空ろな瞳が正面を向いたまま、涙を滴らせている。感情の見えない涙が、目尻を伝って横から流れ出ている。
 光景に絶句すると共に、鼓動が跳ねた。音を内側から響かせたまま早鐘を打つ。

「…………譲葉くん……」

 声を掛けたが、譲葉は月裏を見なかった。茫然としたままで呼吸を整えている。
 コップの水が震えで振動した。譲葉が演じない事が、こんなにも不安を呼ぶなんて知らなかった。

「…………薬、飲もう……譲葉くん……」

 保護のない錠剤を置き去りにする訳にもいかず、月裏は落ち着かないまま譲葉の返答を待つ。

「…………怖い……」

 ぽつり、声が落ちた。細くて悲しげな声だ。

「…………よく分からないのが怖い……急に苦しくなるのが怖い……怖いよ月裏さん……」

 その場で自分の肩を抱き、震えている。

「…………ごめん、譲葉くん……何も出来なくてごめん……」

 両手が塞がった状態では、背中を摩る事さえ出来ない。
 なんて言い訳を重ねて、譲葉の心痛を緩和できない罪悪感を逃れようと試みたが、生まれ行く黒い塊は消えてくれなかった。

 数十分後、月裏はリビングに来ていた。目の前には空っぽのコップと出したままの錠剤がある。
 あの後暫くして譲葉は正気に戻り、月裏の支えの元ベッドに入った。症状が安定した状態で薬を服用するのは逆に副作用が心配だった為、迷いはしたがそのまま持ち帰った。

 まだ、胸の中がざわめいている。重圧の沼の中に居るみたいだ。
 月裏は、湧いてきた吐き気に思わず口を塞ぐ。ぎゅっと目を瞑って下るのを待ったが、堪えきれずに立ち上がり、流し台に吐いてしまった。
 譲葉の死んだような泣き顔が、瞼の裏に鮮明に残っている。色を失いながらも、くっきりとした輪郭で。

 ――未来が描けない。崩壊の絵しか見えない。怖くて怖くて、また泣いてしまいそうになる。
 月裏は、大きく蛇口を捻って水を流した。
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