造花の開く頃に

有箱

文字の大きさ
上 下
81 / 122

12月9日

しおりを挟む
[12月9日、金曜日]
 失神した割に、譲葉は元気そうだった。元々無表情な為、表情からは読み取れないが、様子からは不自然な所は見えない。

 今朝も決まった時間に起床してきて、変わらぬ分量の食事を摂った。相変わらず、感心するほどの美しい姿勢で、ペースを守って食べている。
 手紙の件にも猫の件にも触れずに、他愛もない天気の話をしたりして、朝の短い時間は終了した。

 電車に乗り余裕が生まれた所で、月裏の脳内に彩音の手紙が浮かんで来た。
 結局昨夜も、帰り着いた頃には日を跨ぎそうになっていて、時間が取れなかったのだ。

 今日こそ勇気を出して読んでみよう。彩音がどう思っていたか、どんな気持ちで見ていたか、向き合ってみよう。
 そうしたら少しは何か分かるだろうか。
 流れる景色を目で追いながら、景色が定着する前の日々を懐古した。

 会社の長い廊下を歩いていると、同僚の一人が自然と横に詰めてきた。決して親しくない同僚の接近に、つい気を張ってしまう。

「おはようございます」
「お、おはようございます」
「朝日奈さんあれ聞きました?」
「¨あれ¨ですか……?」

 突如零された隠語に、月裏は思わず眉を顰めてしまった。普段近付かない人間にまで話したくなるくらいだ、相当なビッグニュースに違いない。
 いつも部署内で見ている表情や声色からは、想像もつかない溌剌さが、明るいニュースをイメージさせた。

「部長、転勤になるそうですよ」
「……え?」

 囁く程の声量で暴露された、衝撃の内容に驚愕してしまう。目を見張ったまま停止してしまう。
 一気に開けてきた未来が、逆に恐ろしい。

「吃驚するでしょう。まだ日付は分からないみたいなんですけど、決定事項だって噂ですよ」
「……そ、そうなんですか」

 口角が吊りあがりそうになったが、場所を弁えて我慢した。

「それまでお互いがんばりましょうね」

 同じ部署と言うだけで、あまり接点の無かった人物から励まされたのは始めてだ。
 嬉しさの上に重なり、なんだかくすぐったい。
 日常の半数以上を占めていた辛い時間とも、おさらば出来る日が本当に遣ってくるかもしれない。
 願いが、現実になるかもしれない。

 悪夢に際限が見えた事で、これから始まる時間への恐怖が、僅かに薄れたのが自分自身分かった。

 生きていて良かった、とはまさにこの気持ちの事を言うのか。と帰宅しながら噛み締める。
 もちろん叱咤は恐ろしかったが、それでもいつもよりは強く耐えられた。少ない労力で遣り過ごせた。
 気持ちに寄り添うように空も青々としていて、応援してくれているようだった。

 職場での話を譲葉に聞かせた事は一度もないが、今日の喜びは是非話したい。
 でも、良い時だけ話すのも可笑しいだろうか。
 月裏は、昨日と同じくらい晴れた空を見上げて、帰宅してからの行動を何パターンかシュミレーションした。

 自然と、部屋に向かう足が軽くなる。
 まだ確定もしていない出来事に喜んで、嘘だったらどうするんだ、と冷静な意見を見出してもみたが、勝手に溢れ出る喜びは打ち消せなかった。

「譲葉くんただいま! ……え……?」

 扉を開いて部屋を見ると、譲葉が蹲り、床に手をつき苦しげにしていた。もう片方の手で頭を抱えている。
 すぐ、以前倒れた日を思い出した。

「譲葉くん大丈夫!?」

 月裏は、体が動くまま譲葉に寄り添う。肩で息をする譲葉の背中を、優しく上下に撫でる。
 苦しむ姿を目の前に、何も出来ないのがもどかしい。
 以前倒れた時、寸前に残した言葉によれば、昔の事を思い出して起こると言っていた。
 よくある事だから大丈夫だとも。
 でもこんなの、全然大丈夫じゃない。

 扉を開けるまで持っていた喜びは底に潜み、逆の悲しさが浮き上がってくる。今にも死にそうなくらい苦しみ、表情を歪める譲葉に感情移入してしまう。

「……譲葉くん大丈夫だよ……直ぐ薬と水持ってくるから待ってて」

 辛い悪夢を見た日、時々夢現が曖昧になる時がある。イメージとしては、そのような感じだろう。
 月裏は、隣を一瞬でも離れる事に怖さも覚えたが、躊躇していられないと立ち上がる。

「大丈夫だからね」

 素早く薬を服用させ、暫くして漸く呼吸が静まってきた。分数に換算すれば短い時間も、随分と長く感じた。
 譲葉の瞳は、体力を使ったからか空ろになっており、力を失っている。

「……譲葉くん、落ち着いた?」

 声かけしてやっと、瞳が僅かに動いた。零れそうな程溜まった涙は、零れずに留まったままだ。

「……俺……なんか知らない物……窓……?」

 譲葉はぼんやりとしていて、取り止めが無い様子だ。怯えた顔で記憶を引き戻そうとする。

「止めよう」

 月裏は巻き戻るのが嫌で、打ち切っていた。

「……譲葉くん、大丈夫だよ。今の君はちゃんとここに居るんだから」

 床に手を付いたまま、脱力した体を抱きすくめる。
 譲葉の弱った顔を見たくなくて、隠す手段として顔を埋めた。

「…………月裏さん……ごめん……」

 譲葉の指先が縋るように込めた力が、軽いものであるのに拘らず、痛みとなって響いた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活

XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

パンツを拾わされた男の子の災難?

ミクリ21
恋愛
パンツを拾わされた男の子の話。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...