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12月9日
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[12月9日、金曜日]
失神した割に、譲葉は元気そうだった。元々無表情な為、表情からは読み取れないが、様子からは不自然な所は見えない。
今朝も決まった時間に起床してきて、変わらぬ分量の食事を摂った。相変わらず、感心するほどの美しい姿勢で、ペースを守って食べている。
手紙の件にも猫の件にも触れずに、他愛もない天気の話をしたりして、朝の短い時間は終了した。
電車に乗り余裕が生まれた所で、月裏の脳内に彩音の手紙が浮かんで来た。
結局昨夜も、帰り着いた頃には日を跨ぎそうになっていて、時間が取れなかったのだ。
今日こそ勇気を出して読んでみよう。彩音がどう思っていたか、どんな気持ちで見ていたか、向き合ってみよう。
そうしたら少しは何か分かるだろうか。
流れる景色を目で追いながら、景色が定着する前の日々を懐古した。
会社の長い廊下を歩いていると、同僚の一人が自然と横に詰めてきた。決して親しくない同僚の接近に、つい気を張ってしまう。
「おはようございます」
「お、おはようございます」
「朝日奈さんあれ聞きました?」
「¨あれ¨ですか……?」
突如零された隠語に、月裏は思わず眉を顰めてしまった。普段近付かない人間にまで話したくなるくらいだ、相当なビッグニュースに違いない。
いつも部署内で見ている表情や声色からは、想像もつかない溌剌さが、明るいニュースをイメージさせた。
「部長、転勤になるそうですよ」
「……え?」
囁く程の声量で暴露された、衝撃の内容に驚愕してしまう。目を見張ったまま停止してしまう。
一気に開けてきた未来が、逆に恐ろしい。
「吃驚するでしょう。まだ日付は分からないみたいなんですけど、決定事項だって噂ですよ」
「……そ、そうなんですか」
口角が吊りあがりそうになったが、場所を弁えて我慢した。
「それまでお互いがんばりましょうね」
同じ部署と言うだけで、あまり接点の無かった人物から励まされたのは始めてだ。
嬉しさの上に重なり、なんだかくすぐったい。
日常の半数以上を占めていた辛い時間とも、おさらば出来る日が本当に遣ってくるかもしれない。
願いが、現実になるかもしれない。
悪夢に際限が見えた事で、これから始まる時間への恐怖が、僅かに薄れたのが自分自身分かった。
生きていて良かった、とはまさにこの気持ちの事を言うのか。と帰宅しながら噛み締める。
もちろん叱咤は恐ろしかったが、それでもいつもよりは強く耐えられた。少ない労力で遣り過ごせた。
気持ちに寄り添うように空も青々としていて、応援してくれているようだった。
職場での話を譲葉に聞かせた事は一度もないが、今日の喜びは是非話したい。
でも、良い時だけ話すのも可笑しいだろうか。
月裏は、昨日と同じくらい晴れた空を見上げて、帰宅してからの行動を何パターンかシュミレーションした。
自然と、部屋に向かう足が軽くなる。
まだ確定もしていない出来事に喜んで、嘘だったらどうするんだ、と冷静な意見を見出してもみたが、勝手に溢れ出る喜びは打ち消せなかった。
「譲葉くんただいま! ……え……?」
扉を開いて部屋を見ると、譲葉が蹲り、床に手をつき苦しげにしていた。もう片方の手で頭を抱えている。
すぐ、以前倒れた日を思い出した。
「譲葉くん大丈夫!?」
月裏は、体が動くまま譲葉に寄り添う。肩で息をする譲葉の背中を、優しく上下に撫でる。
苦しむ姿を目の前に、何も出来ないのがもどかしい。
以前倒れた時、寸前に残した言葉によれば、昔の事を思い出して起こると言っていた。
よくある事だから大丈夫だとも。
でもこんなの、全然大丈夫じゃない。
扉を開けるまで持っていた喜びは底に潜み、逆の悲しさが浮き上がってくる。今にも死にそうなくらい苦しみ、表情を歪める譲葉に感情移入してしまう。
「……譲葉くん大丈夫だよ……直ぐ薬と水持ってくるから待ってて」
辛い悪夢を見た日、時々夢現が曖昧になる時がある。イメージとしては、そのような感じだろう。
月裏は、隣を一瞬でも離れる事に怖さも覚えたが、躊躇していられないと立ち上がる。
「大丈夫だからね」
素早く薬を服用させ、暫くして漸く呼吸が静まってきた。分数に換算すれば短い時間も、随分と長く感じた。
譲葉の瞳は、体力を使ったからか空ろになっており、力を失っている。
「……譲葉くん、落ち着いた?」
声かけしてやっと、瞳が僅かに動いた。零れそうな程溜まった涙は、零れずに留まったままだ。
「……俺……なんか知らない物……窓……?」
譲葉はぼんやりとしていて、取り止めが無い様子だ。怯えた顔で記憶を引き戻そうとする。
「止めよう」
月裏は巻き戻るのが嫌で、打ち切っていた。
「……譲葉くん、大丈夫だよ。今の君はちゃんとここに居るんだから」
床に手を付いたまま、脱力した体を抱きすくめる。
譲葉の弱った顔を見たくなくて、隠す手段として顔を埋めた。
「…………月裏さん……ごめん……」
譲葉の指先が縋るように込めた力が、軽いものであるのに拘らず、痛みとなって響いた。
失神した割に、譲葉は元気そうだった。元々無表情な為、表情からは読み取れないが、様子からは不自然な所は見えない。
今朝も決まった時間に起床してきて、変わらぬ分量の食事を摂った。相変わらず、感心するほどの美しい姿勢で、ペースを守って食べている。
手紙の件にも猫の件にも触れずに、他愛もない天気の話をしたりして、朝の短い時間は終了した。
電車に乗り余裕が生まれた所で、月裏の脳内に彩音の手紙が浮かんで来た。
結局昨夜も、帰り着いた頃には日を跨ぎそうになっていて、時間が取れなかったのだ。
今日こそ勇気を出して読んでみよう。彩音がどう思っていたか、どんな気持ちで見ていたか、向き合ってみよう。
そうしたら少しは何か分かるだろうか。
流れる景色を目で追いながら、景色が定着する前の日々を懐古した。
会社の長い廊下を歩いていると、同僚の一人が自然と横に詰めてきた。決して親しくない同僚の接近に、つい気を張ってしまう。
「おはようございます」
「お、おはようございます」
「朝日奈さんあれ聞きました?」
「¨あれ¨ですか……?」
突如零された隠語に、月裏は思わず眉を顰めてしまった。普段近付かない人間にまで話したくなるくらいだ、相当なビッグニュースに違いない。
いつも部署内で見ている表情や声色からは、想像もつかない溌剌さが、明るいニュースをイメージさせた。
「部長、転勤になるそうですよ」
「……え?」
囁く程の声量で暴露された、衝撃の内容に驚愕してしまう。目を見張ったまま停止してしまう。
一気に開けてきた未来が、逆に恐ろしい。
「吃驚するでしょう。まだ日付は分からないみたいなんですけど、決定事項だって噂ですよ」
「……そ、そうなんですか」
口角が吊りあがりそうになったが、場所を弁えて我慢した。
「それまでお互いがんばりましょうね」
同じ部署と言うだけで、あまり接点の無かった人物から励まされたのは始めてだ。
嬉しさの上に重なり、なんだかくすぐったい。
日常の半数以上を占めていた辛い時間とも、おさらば出来る日が本当に遣ってくるかもしれない。
願いが、現実になるかもしれない。
悪夢に際限が見えた事で、これから始まる時間への恐怖が、僅かに薄れたのが自分自身分かった。
生きていて良かった、とはまさにこの気持ちの事を言うのか。と帰宅しながら噛み締める。
もちろん叱咤は恐ろしかったが、それでもいつもよりは強く耐えられた。少ない労力で遣り過ごせた。
気持ちに寄り添うように空も青々としていて、応援してくれているようだった。
職場での話を譲葉に聞かせた事は一度もないが、今日の喜びは是非話したい。
でも、良い時だけ話すのも可笑しいだろうか。
月裏は、昨日と同じくらい晴れた空を見上げて、帰宅してからの行動を何パターンかシュミレーションした。
自然と、部屋に向かう足が軽くなる。
まだ確定もしていない出来事に喜んで、嘘だったらどうするんだ、と冷静な意見を見出してもみたが、勝手に溢れ出る喜びは打ち消せなかった。
「譲葉くんただいま! ……え……?」
扉を開いて部屋を見ると、譲葉が蹲り、床に手をつき苦しげにしていた。もう片方の手で頭を抱えている。
すぐ、以前倒れた日を思い出した。
「譲葉くん大丈夫!?」
月裏は、体が動くまま譲葉に寄り添う。肩で息をする譲葉の背中を、優しく上下に撫でる。
苦しむ姿を目の前に、何も出来ないのがもどかしい。
以前倒れた時、寸前に残した言葉によれば、昔の事を思い出して起こると言っていた。
よくある事だから大丈夫だとも。
でもこんなの、全然大丈夫じゃない。
扉を開けるまで持っていた喜びは底に潜み、逆の悲しさが浮き上がってくる。今にも死にそうなくらい苦しみ、表情を歪める譲葉に感情移入してしまう。
「……譲葉くん大丈夫だよ……直ぐ薬と水持ってくるから待ってて」
辛い悪夢を見た日、時々夢現が曖昧になる時がある。イメージとしては、そのような感じだろう。
月裏は、隣を一瞬でも離れる事に怖さも覚えたが、躊躇していられないと立ち上がる。
「大丈夫だからね」
素早く薬を服用させ、暫くして漸く呼吸が静まってきた。分数に換算すれば短い時間も、随分と長く感じた。
譲葉の瞳は、体力を使ったからか空ろになっており、力を失っている。
「……譲葉くん、落ち着いた?」
声かけしてやっと、瞳が僅かに動いた。零れそうな程溜まった涙は、零れずに留まったままだ。
「……俺……なんか知らない物……窓……?」
譲葉はぼんやりとしていて、取り止めが無い様子だ。怯えた顔で記憶を引き戻そうとする。
「止めよう」
月裏は巻き戻るのが嫌で、打ち切っていた。
「……譲葉くん、大丈夫だよ。今の君はちゃんとここに居るんだから」
床に手を付いたまま、脱力した体を抱きすくめる。
譲葉の弱った顔を見たくなくて、隠す手段として顔を埋めた。
「…………月裏さん……ごめん……」
譲葉の指先が縋るように込めた力が、軽いものであるのに拘らず、痛みとなって響いた。
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