造花の開く頃に

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12月7日

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[12月7日、水曜日]
 アラーム起動10分前、月裏は目覚めていた。豆電球の仄暗さが、優しく脳を目覚めさせてゆく。
 布団を抜け電気をつけると、自然と譲葉の絵に視線が向かった。嬉しい気持ちが蘇る。

 そう言えば最近、夜中の起床が減ったような気がする。眠りが浅いのは相変わらずだが、悪夢に魘される回数が明らかに減少した。
 きっとそれも、全部譲葉のお陰だ。知らず知らずの内に精神状態が快方に向かっているのかもしれない。
 もしかすると、気のせいかもしれないが。

 譲葉が来てくれて良かった。
心の底から、100%の気持ちでそう思っていると言えば嘘になるが、割合としては間違いじゃない。
 本音で話す価値を知った。気持ちが通じ合える喜びも知った。強引な力が働いているものの、少し死を遠ざけられるようにもなった。
 これらは全て、譲葉のお陰だ。
 その譲葉が来る切っ掛けを作ってくれた祖母のお陰でもあるかもしれない。

 気持ちが伝わった喜びを、祖母に伝えてみようか。大した用もなく、話したいだけで電話するなんて子ども染みているだろうか。
 だとしても、祖母なら優しく笑ってくれるだろう。

「おはよう月裏さん」
「あっ、おはよう譲葉くん」

 扉を潜り現れた、子猫を両手に抱いた譲葉は何時も通りの無表情だ。しかし、始めて家に遣ってきた時と比較すれば、少し柔らかくなった気もする。
 分かり辛すぎて確信は出来ないが、自分の為に思い込んでおく事にした。
 猫が腕の中にすっぽりと嵌り込んだ状態で、首だけを左右に動かして景色を見ている。昨夜の弱りきった姿とは、打って変わって溌剌とした様子だ。

「猫元気そうだね」
「……あぁ、ミルクとかって店に売っているだろうか……」

 こちょこちょと指先で猫の喉元を擽りながら、譲葉はじっと猫を見詰めている。
 月裏は、スーパーの内部構造を端から記憶に起こし、該当商品の有無を思い出してみた。

「……確かペット用品は売ってたよ」
「そうか、今日見てこようかな」
「本当? ありがとう」

 譲葉は相当動物が好きなのか、夢中にも見える。
 いつも一歩引いて行動する譲葉ばかり見ていたものだから、前進して動こうとする姿勢は物珍しく映った。

「飼い主は心配しているだろうか?」
「うーん、放し飼いとかなら意外と気付いてないかもよ」
「そういうのもあるか」

 終始睫を伏せっ放しの譲葉を見て昨日の歓喜を思い出し、月裏は仄かに一人笑いしてしまう。
 返事を聞きたい欲は少なからずあるが、それは強要できる物では無いので、その内にと思いを遠くに寄せた。

 癖のように強張った体で、廊下を越え扉を潜り部署内に入ると、直ぐにとある席に目がついた。
 その席が無人である場面を見るのは、これで2度目だ。
 いつもなら静か過ぎる空気は、薄汚さはそのままだが少し賑やかしい。
 そう、上司の不在で同僚達が内緒話をしていたのだ。

「あっ、朝日奈さん、聞き――」

 しかし、ざわめきも束の間、上司の出現により空気は瞬時に凍りついた。
 皆、目を付けられぬよう、一目散に態勢を変える。
 月裏も疑問を忘れて、直ぐに視線を落とした。

 結局今日も打開法は見つからず、長い時間は終わった。
 溝が深まる度に、やっぱり自分には無理なのだと諦めそうになってしまう。切欠さえ掴めそうにないとなると途方に暮れてしまう。

 まだ二日しか悩んでいないのも、ちゃんと頭では分かっている。しかしそれが長いのだ。二日も何も見出せていないと思うと、これからもそうじゃないかとの考えに結びついてしまう。
 もっと前向きに、気楽に考えれば楽だとも分かっているのに。

 やはり勇気を振り絞り、会社を辞めるべきだろうか。
 現在の苦痛を回避する変わりに、未来への多大な不安を買うとしても。
 月裏は、誰も居ない階段で深い溜め息を吐いた。

 扉を開くと同時に、廊下の灯りが点った。玄関から真っ直ぐに伸びる、廊下の突き当たりに譲葉が居る。

「出迎えてくれてありがとう、ただいま」
「おかえり、お疲れ様」

 一歩ずつ、玄関の方へと歩いてくる。
 てっきり、今朝のように猫を連れ歩いているとばかり思っていたものだから、その手が空なのが意外だった。

「猫は?」
「部屋の中だ、廊下は冷えるかもしれないと思って」
「そっか、優しいね」

 譲葉の、動物愛護精神は本物のようだ。いつか機会があれば、ペットショップに行って新しい家族を探すのも良いかもしれない。
 月裏は、微笑ましい景色を空想する。

「わざわざここまで来てくれてありがとう、今日も遅くなってごめんね。今日からまた一緒の部屋で寝よう」
「あぁ」

 譲葉は遣ってきて早々に踵を返し、後ろを歩く月裏を伺うようにしながら歩いた。

 服を着替えて部屋に入ると、子猫が譲葉に擦りついているのが見えた。早速懐いてしまったらしい。
 一人ぼっちの時間が長い分、共に居てくれる存在と言うのは尊いものだ。譲葉の孤独感を埋める手段、といっては悪いが、子猫は隙間を埋めてくれる存在に成り得る。
 飼い主を探さずに、このままペットにしてしまう事が出来たら――。

「……猫とずっと一緒に居たい?」

 譲葉は月裏の思惑を読んだのか、若干躊躇い気味に間を開く。それでも無言は貫かなかった。

「…………出来るなら。でも飼い主がいるんだ、探して居るかもしれないし、ちゃんと返す」
「……そっか。うん、そうだね」

 月裏は、優しい譲葉の意見を素直に飲み込み、醜い考えを潔く廃棄した。
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