造花の開く頃に

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11月6日【2】

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 ――月裏はクラシックの流れる部屋で、何もせず机に置かれた携帯を見つめていた。
 少しでも早く会社に連絡しなければならない、と心だけが急く。
 だが、逸るのは気持ちだけで、携帯を開く事は愚か触れる事さえ体が拒んだ。

 これでは月曜日になってしまう。月曜になり欠勤したら、それこそ戻り辛くなる。
 でも、掛けるのが怖い。冷たい反応が怖い。考えるだけで、冷や汗が伝い落ちてくる。

「…………譲葉くん、ちょっと仮眠とってくるね」 
「……分かった」

 返事を受け取ると、月裏は携帯を掴み取り、早足でリビングを出た。

 数秒後、月裏が居たのはお手洗いだった。
 風邪が完治していなかったのか、いつもの不調か、妙に息苦しくて吐き気に苛まれている。
 月裏は、今にも流れ出しそうになる涙を抑えて、無様な声と音を控え嘔吐した。

 落ち着いた頃には、酷い疲労感が体に圧し掛かっていて、月裏はそのままベッド代わりのソファに直行した。

「月裏さん、大丈夫か?」
「…………譲葉くん……?」

 目を覚ますと、薄暗い景色の中に譲葉の存在が確認できた。じっと、こちらを見つめている。

「……また寝すぎた?」
「……あ、いや」

 襲ってきた頭痛に一瞬表情を歪めたものの、即効取り繕い止めた。
 腹部に乗せておいた携帯を手に取り、時刻を確認すると9時を回っていた。
 途中幾度と目を覚ましたが、意識が朦朧としていて、時間の事まで気が回らなかった。

「……ごめん、寝すぎたね。ご飯食べた?」
「あぁ、食べた。ごちそうさま」

 譲葉は何も言わない。
 月裏は、以前にもあった光景を思い出しながら、譲葉が自分を起こしにやってきた理由を考えてみた。
 多分、心配したのだろう。長い事起きて来ないから。
 月裏は、心配させていた可能性が間違いでは無いと思えて来て情けなくなった。

「…………ここで何かするなら電気点けてもいいよ。それとも寝に来た?」
「……あぁ……えっと、寝ようかな……」

 その為、譲葉の次なる行動を促す台詞を掛けた。
 ずっと見詰められるのは苦しく息が詰まりそうだったから、早く回避したいと思ってしまったのだ。

 深夜、また目覚めていた。昼頃、飛び飛びではあったが睡眠を取った事が徒となり、眠れなくなってしまったらしい。
 ついでに会社への報告が、強迫観念となり続いていて非常に気分が悪い。

 月裏は潤みだす瞳を袖で擦って、勢い良く飛び起きた。そしてそのまま、リビングへ向かった。

 やっぱり駅に着いた時、飛び込んで死んでいれば良かった。なぜ戻ってきてしまったのだろう。
 月裏は、吐いても尚消えない吐き気と、治まる気配の無い頭痛に悶えながら、茫然と目の前を見つめていた。

 流れる水が、吐瀉物を流して行く。
 見ていると段々惨めな気持ちになってきて、月裏はまた戸棚を引いていた。
 並ぶ包丁が恐怖ではなく、自分を楽にしてくれる有り難い道具に見える。
 鋭い刃を宛がって手首を深く切れば、今度こそは死ねるかもしれない。

「月裏さん」

 月裏は、背後からの囁きに驚き、肩を竦めた。
 一瞬硬直してから後ろを見ると、扉を開いた先に譲葉が立っていた。心配そうな顔で、月裏の顔を一点に見つめている。

「……譲葉くんどうしたの……? 喉でも渇いた?」

 月裏は戸棚をそっと閉め、何もなかった素振りを見せた。

「……いや、月裏さんが……リビングに行くのが見えたから」

 珍しく、流さず真実を告白されて、月裏は絶句する。恐らく、譲葉は心配になり付いてきたのだろう。
 また、自殺に踏み切らないように。

「…………そっか」

 無理矢理作り出そうとした笑顔は、中途半端な形だけ作りそこで止まってしまった。
 ポタリと、雫が頬を伝う。

「……月裏さん……」

 具合が悪いからかいつも以上に強がれず、また涙を落としてしまった。
 譲葉が居るのに、目の前で見ているのに。

「……ごめん、見ないで……」

 譲葉は咄嗟に、視線を逸らす。
 次々と脳内で溢れ出す苦痛や憂慮の数々が、脳を駆け回り心まで沈んできた。
 恥ずかしい。譲葉よりも年上なのに、強くあれない事がとても恥ずかしい。情けない大人だと思われている気がして、また一層苦しくなる。

 月裏は両手を強く目に押し付けて、どうにか停止を試みた。
 だが、駄目だ。止めようとすればするほど、止まらない。

「…………ごめんね、急に泣くとか意味分かんないよね……」

 泣く理由を、体調に重ねて言い訳はできない。
 自殺未遂を見られた時点で気付かれていたとは思うが、今度こそ心が弱いと確信されてしまったに違いない。

「…………こんなの気持ち悪いよね……」

 自嘲しても、時間が消える訳でも見逃してもらえる訳でもないのに、ひたすら言い訳の言葉を探してしまう。失望を軽減する為の言葉を探している。

「…………こんな人間と、一緒に居たくないよね……」

 いっそ譲葉が、自分の事を責め殺してくれればいいのに。そうしたらこの苦しさからも――。

「そんな事は無い」

 カタリと音がしてから、ほんの僅かな間が空いて、月裏の体を譲葉の腕が包み込んだ。月裏は、想定外の行動に硬直する。
 譲葉の体は冷たくなっている、しかし、突き放そうと思えなかった。

「辛いなら無理はするな」
「で、もっ……」

 慰めのせいで、溢れ出しそうになる嗚咽が発言を邪魔する。

「泣いてもいい、苦しい時くらい良いんだ」

 譲葉の言葉が本心だと、まだ受け容れがたい。それでも言葉は、月裏の心に直接入り込んできた。

 弱さを知られるのが怖かった。嘲られてしまうのが、見下されるのが怖かった。
 些細なきっかけで憂鬱になるくらい脆いのに、それを隠してでも無理を貫き通したかった。
 でも、必要無かったかもしれない。
 これが譲葉の建前でも、もう堪えきれない。

「…………ごめん、今日だけ許して……」

 月裏は譲葉の背中に腕を回すと、我慢を解き放ち、嗚咽を鳴らして泣いた。
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