造花の開く頃に

有箱

文字の大きさ
上 下
59 / 122

11月19日

しおりを挟む
[11月19日、土曜日]
 あれからどれ位、時間が経っただろうか。頭が異常にくらくらする。体が凍えている。
 月裏は、リビングにて目を覚ましていた。床に倒れこむ姿勢のまま何時間も居たからか、底冷えしている。
 無力な腕を委ねていた服は赤々と染まっていて、腕には深い傷と血がこびり付いていた。

 昨夜、向かう意識のまま手首を切った。
 自分では盛大に切ったと思ったのだが、それほど深くは無かったらしく、ある程度の血を流しただけで止まってしまったようだ。
 月裏は、暫くの間茫然と現実を見詰めていたが、物音と同時に我に帰り立ち上がった。

 譲葉が目覚めて、この血を見たら。腕を見たら。
 きっと今度こそ失望される。だから、隠さなければならない。
 しかし、譲葉がもう既にリビングに向かっていたら逃げ場が確保できない。

 月裏は混乱に陥り、色付けた腹部を隠すようにして、その場で屈み込む。
 だが、譲葉はやってこなかった。

 暫く無音が続いた後、急いで服を着替えに奥の部屋へ走る。
 傷を包帯で塞ぎ、着替えたシャツを袋に詰め込んで、全ての証拠を隠滅した所で漸く心が落ち着いた。
 その時になって、目覚めたのが深夜だったと知った。

「…………おはよう譲葉くん……」

 ¨何も無かったかのように¨¨いつも通りに¨
 月裏は胸の奥でしきりに唱えながら、恐る恐る部屋の扉を開く。
 すると直ぐに、譲葉の綺麗な瞳が上を向いた。

「おはよう月裏さん」

 譲葉は既に起床し、ベッドの脇に座り込んでいた。
 タイミングを見計った甲斐もあり、丁度出ようとしていた所に来られたようだ。
 だが直ぐに昨日の一件が蘇り、言葉を見失う。

「………えっと……」
「……驚かせたな、すまない」

 強く言い放った譲葉の瞳は、一点にこちらを見ていた。まるで謝罪を拒むように、仄暗く澄んだ目が捉えて来る。

「………ううん、大丈夫」

 月裏は、そう答えていた。
 意思に反した言葉が、勝手に零れた。
 譲葉の表情は相変わらず変化せず、何を考えているかよく分からない。

「お腹が空いた」

 加えて、突拍子もない言葉が零されて更に分からなくなった。

「ご飯が食べたい」

 だが、まるで小さな子どものような訴えは、窮地にあった月裏の心を僅かに解きほぐした。

「…………うん、食べよっか……」

 やっぱり生きていて良かった。なんて安易な考えが過ぎり、自分で自分が分からなくなった。

 ¨もし、昨日が最期の日だったら。¨
 電車に揺られながら、不意に浮かぶ。
 生き残った翌日は大体、¨どうして死ねなかったのか¨の疑問に駆られていて、この問いに触れるのは初めてな気がする。
 生きていて良かったと思う反面、日々を抜け出せなかった悔しさも残っている。
 ぼんやりする脳では、結局どちらが良かったかなんて決められない。いや、多分本調子でも決められないけれど。

 月裏は、耳慣れた声のアナウンスを聞きながら、目を閉じて思考を放棄した。

 職務に集中できないどころか、周りの声までもが遠く聞こえて、今日一日は変な感覚だった。
 それでも、周りが何を言っているか理解はでき、傷心を回避する事は出来なかったが。

 死んでいれば良かったとの気持ちと、譲葉の為に生きなくてはならないとの気持ちが、ずっと回り続けている。
 葛藤しては傾き、また繰り返す。それは疲れとなり、月裏の心と体に蓄積された。

「…………ただいま……」

 顔も上げないまま扉を開いたが、扉の先には今日も譲葉は居ない。多分、奥の部屋に居るのだろう。
 また、倒れていないだろうか。
 刻み込まれた記憶が引き出され、極度の不安に駆られる。気分の悪さも加わって、廊下に据えた足が震える。

「おかえり、月裏さん」

 遠くからの小さな声にハッとなり顔を上げると、奥の部屋の扉から顔を覗かせている譲葉が見えた。
 一気に胸を満たした安心感の所為で力が抜け、月裏はその場で蹲ってしまった。
 頭がくらくらして気持ちが悪くて、鼓動がうるさく鳴っている。多分貧血だ。

「……月裏さん、大丈夫か?」
「………大丈夫、よくある事だから気にしないで……」

 声が震える。大丈夫だと主張しているくせに、言葉通りの態度が全く作れない。
 譲葉は少しの間だけ立ち尽くしてから、そっと背中を摩りはじめた。
 とある日に、類似しているのを思い出す。
 前も蹲ってしまった際、譲葉はこうして背を撫でてくれた。まるで苦しみを和らげようとするかのように。

「……ごめんね譲葉くん……こんな大人でごめん……」

 前と同じ台詞が、口頭に上る。
 譲葉は多分、否定しない。しかし、それを良い事に発言しているわけでは無い。謝罪が勝手に口をつくのだ。
 だとしても自分は卑怯だ。困らせると分かって言っているのだから。理解しながら、止められないのだから。

 月裏は悲観的に傾いてゆく自分の気持ちに抗えず、頭の中を埋めてゆく願いを喉まで上らせる。

「…………譲葉くん……僕を……」

 だが、言い切ってしまうのは止めた。

「どうした?」
「…………なんでもない……。譲葉くん先に寝ていても良いよ、直ぐに行くから……」
「………でも」

 顔を伏せた状態でも、譲葉の困っている様子が目に浮かぶ。
 譲葉に見せたい態度の理想と現実が大きすぎて、自分自身失望してしまう。
 どうして上手くやれないんだと、自分を攻めてしまう。

「……大丈夫、一人の時もこういう事はよくあったんだ……すぐに立てるようになるから心配しないで……」
「だったら、それまで一緒にいる」

 全ては、譲葉が優しいからだ。
 人間として出来た彼を目の前にしてしまうと、ちっぽけな自分がとても恥ずかしくなる。
 良くしてもらって何も返せないなんて、自分はなんて駄目な人間だ。
 やっぱり、死んでしまいたい。

「…………譲葉くん……僕……」

 一旦回復しても、些細なきっかけで直ぐに落ち込んでしまう心を、コントロールするのに疲れた。

「…………死にたい」

 体と意思が、乖離しているような感覚がある。
 自分は少し離れた所から、幽体離脱でもしているように声を聞いていて、だが絶望は身近にあって妙な感覚だ。
 とにかく気分が悪くて、意識がはっきりとしなくて、うわ言を言うように声を作ってしまう。

「…………死んで楽になりたい……苦しい………」

 駄目だと分かってはいるのに、表面上だけの理解は言葉を制止してくれない。

「…………嫌だ」

 ぽたりと、雫が床に付いた手の甲に落ちた。自分の物ではない雫に、驚いて顔を上げてしまう。

「…………嫌だ……」

 幾つもの筋を頬に描き、譲葉が泣いていた。

「………譲葉くん……?」

 歪まず、美しいままの泣き顔。少し寂しそうな、苦しそうな、けれど確かに心の中が表面化された顔。
 月裏はそこで、漸く我に帰った。

「………ご、ごめ………」

 引き返せない状況を作ってしまった事に、酷く戸惑い困惑してしまう。
 譲葉は、背中に宛てていた手を、雫の溢れる目元に宛がい塞き止めようと必死になっている。何も言わずに、呼吸ごと声を殺している。
 多分、泣く事で責めてしまわないよう、どうにか押さえようとしているのだろう。

「…………譲葉……くん……ごめ……」

 目の前で静かに泣き続ける譲葉を見続けていると、こちらまで泣きたくなってくる。
 悲しい気持ちが伝染して、自然と涙が頬を伝う。
 それは様々な悲観や出来事を絡めて、段々と大きくなってゆく。その内堪えきれない嗚咽まで溢れ出して、制御が利かなくなってしまった。

 これで終わりだ。やはり、昨日死んでいれば良かったのだ。譲葉の為に生きようなんて言うのは、自己中心的な考えだった。
 生きたところで、恩返しなんて出来ないのに。こうやって泣かせてしまうだけなのに。

 嗚呼、そう考えてしまう事がもう自分勝手だ。
 譲葉は否定したのに、拒否が涙まで齎したと言うのに、まだ死んでいれば良かっただなんて。
 昨日切った手首が、ズキズキと痛む。もう傷は塞がったはずなのに強く轟く。

「…………ごめんね、ごめんね………」

 謝罪を繰り返しながらも、今すぐ心臓が止まってほしいと考えている。そんな自分を酷く嫌悪した。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

同僚くすぐりマッサージ

セナ
大衆娯楽
これは自分の実体験です

【R18】もう一度セックスに溺れて

ちゅー
恋愛
-------------------------------------- 「んっ…くっ…♡前よりずっと…ふか、い…」 過分な潤滑液にヌラヌラと光る間口に亀頭が抵抗なく吸い込まれていく。久しぶりに男を受け入れる肉道は最初こそ僅かな狭さを示したものの、愛液にコーティングされ膨張した陰茎を容易く受け入れ、すぐに柔らかな圧力で応えた。 -------------------------------------- 結婚して五年目。互いにまだ若い夫婦は、愛情も、情熱も、熱欲も多分に持ち合わせているはずだった。仕事と家事に忙殺され、いつの間にかお互いが生活要員に成り果ててしまった二人の元へ”夫婦性活を豹変させる”と銘打たれた宝石が届く。

生意気な女の子久しぶりのお仕置き

恩知らずなわんこ
現代文学
久しくお仕置きを受けていなかった女の子彩花はすっかり調子に乗っていた。そんな彩花はある事から久しぶりに厳しいお仕置きを受けてしまう。

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

くすぐり奴隷への道 FroM/ForMore

レゲーパンチ
現代文学
 この作品は、とある18禁Web小説を参考にして作られたものです。本作品においては性的描写を極力控えた全年齢仕様にしているつもりですが、もしも不愉快に思われる描写があったのであれば、遠慮無く申し付け下さい。  そして本作品は『くすぐりプレイ』を疑似的に体験し『くすぐりプレイとはいったいどのようなものなのか』というコンセプトの元で作られております。  インターネット黎明期の時代から、今に至るまで。  この道を歩き続けた、全ての方々に敬意を込めて。  それでは、束の間の短い間ですが。  よろしくお願いいたします、あなた様。  追伸:身勝手ながらも「第7回ライト文芸大賞」というものに登録させていただきました。

処理中です...