造花の開く頃に

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11月18日

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[11月18日、金曜日]
 夜中、月裏はまた目覚めていた。久しぶりの悪夢に襲われ、飛び起きたのだ。
 減りつつあった、気持ちの悪い感覚に吐き気を催す。
 月裏は直ぐにソファを抜けて、リビングへと駆け込んだ。

 吐くのは、随分久しぶりな気がする。
 実際一ヶ月さえ経過していないのが事実だが、月裏にとっては数日間でも大した長さなのだ。
 それだけ、譲葉に救われていたという事だ。

 昨日、深い話をしないまま、それぞれ眠りについた。譲葉の体調を考慮し、詳しい話は後ほどにしようと考えたのだ。
 いや、それもあるが、半分は建前に過ぎない。本当は聞くのが怖かっただけだ。勿論、今も怖い。

 未来が歪み始める感覚に、月裏は震えが止まらなかった。

「譲葉くん、おはよう」

 翌朝月裏は、自ら寝室に来ていた。
 このまま放置すれば、日課通り起床してくるであろう譲葉に休養を薦める為だ。
 案の定、譲葉は目を覚まし、ベッドを出ようとしているところだった。

「……おはよう月裏さん」
「おはよう、調子どう?」
「大丈夫だ」
「そっか良かった、今日はもう少し眠ってなよ、ね?」

 譲葉も昨日の件を気にしているのか、申し訳なさそうに頷くと再度毛布の中に潜りこんだ。
 黒い髪が揺れて、白い首筋を僅かに露出させる。
 その時見えた深い傷跡から、月裏は即効目を逸らした。

「じゃあ行って来るね。帰ってきて体調思わしくなかったら病院行こう」

 昨日も病院を薦めたが、大丈夫だからと断られてしまった。そのため様子見を行う事にはしたのだが、やはり倒れてしまうまでの何かがあるのは心許ない。

「……それか」

 携帯に連絡して。
 言おうとして、絶対対応出来ないと気付き止めた。

「……えっと、何でもない。帰ってきてまだ調子が悪かったら病院に行こうか」

 安心させようと深く微笑んだ顔を見て、譲葉は数秒絶句する。

「………月裏さん、心配しなくても大丈夫だからな」

 そうしてから零れた声に、胸が痛くなった。

 譲葉は自分を大切にしない。務めだと思っているのか、自分を二の次にしている気がする。
 そう勝手に思っているだけなら良いが、気の所為だとも思えない。
 寧ろ気を遣わせてばかりに思えて、申し訳なくなる。

 もっと自由にしてほしいのに。もっとわがままになってほしいのに。
 やはり警戒心を解くのは、まだまだ時間が要りそうだ。
 月裏は悲しくなる心から逃げるように、職場へと飛び込んだ。

 帰宅する足も、何だか重くなる。
 普段通りだと言ってしまえば普段通りなのだが、今日の重みの原因は疲労だけではない。
 また気分を悪くしていたら。
 考えると恐ろしくなってしまうのだ。
 気を失っていたら、もし死んでしまっていたら。
 最悪の想像が加速して、心を不必要に抉る。
 月裏は、震える足をどうにか引き摺って、階段を一歩ずつ上がった。

 扉の先、漏れる光は見えない。
 忠告を聞いて休んでいるのか、それともまだ起き上がれないのか、譲葉は廊下にいないようだ。
 終わらない緊張状態の中ではただいまと言う事さえできず、月裏は挨拶もなしに扉を開く。

 廊下の先の暗闇が、先の見えない未来みたいだ。吸い込まれそうなブラックホールのように、延々と続きそうな錯覚に陥る。
 行き過ぎた不安だとは、自分でも分かっている。
 しかし分かっていても、飲まれそうになってしまうのだ。癖みたいに、病気みたいに、苦しくなってしまうのだ。

「……ただいま」

 意外にも短かった廊下を進み、ゆっくりと扉を開けると譲葉はベッドに座って本を読んでいた。ページは真ん中辺りだ。

「おかえり。お疲れ様」

 思い描いていた姿よりも元気そうで、月裏は心の底から安堵した。
 譲葉は僅かに俯き、ページの間に付属の紐を挟み、両手で優しく閉じた。

「……体の調子どう? 病院大丈夫そう?」
「あぁ、もう平気だ」

 言いながら立ち上がって、棚の定位置に本を納める。棚には、便利なのか何着かの服も収まっていた。
 月裏は、一連の動作を軽々こなす譲葉を見て、無意識の内に微笑んでしまった。

「……そっか、良かった……。辛かったら早めに言うんだよ」

 譲葉は頷きもせず否定もせず、ただ濁りのない瞳で月裏を見詰めるだけだ。
 月裏は視線が痒くなってきて、さっと顔を背けてしまった。そのまま体も翻して、取っ手を握る。

「……じゃあ僕は着替えてくるね。おやすみ譲葉くん……」
「…………あの……」

 だが、小さな小さな声に移動は止められた。
 振り向くと、譲葉は視線を伏せ斜め下を見ていた。

「……月裏……さん……」

 声も、普段聞かない搾り出したような声で、考えずとも何かを打ち明けようとしているのだと分かった。

「……どうしたの……?」

 想像の欠片すら出来なくて、また緊張が背筋を凍らす。

「…………昔の事、思い出したりとかでよくあるんだ……だから……」

 声を詰まらせる様子が、必死さを物語る。

「……そこまで珍しい事じゃないから……だから……病院も心配も良いから……辛くならなくてもいいから……」

 懸命に吐露しようとする様子を立ち尽くして見ていた月裏だったが、急に変化に気付いた。
 頬に汗が伝っていて、呼吸も速くなっている。

「ゆ、譲葉、くん……っ」
「……うっ」

 一瞬の呻きと同時に、譲葉が頭を抱える。抱える腕は諤々と震えていて、止まる様子を見せない。
 駆け寄ろうと前に出たところまでは良かったのだが、一瞬にして変化した空気に怖気づいてしまい、その肩に触れる事ができなかった。
 目の前の譲葉は、強い頭痛がするのか酷く苦しげだ。肩を上下にして、途切れ途切れになる呼吸を繰り返している。

 ――動けなかった。金縛りにあっているみたいに体が硬直してしまい、その場から一歩も進めなかった。

 声の代わりに涙が零れる。それは段々と強くなって呼吸さえ妨げてくる。
 目の前には、力なくベッドに倒れこむ譲葉の姿があった。
 胸が痛い。現状が上手く把握できない。
 逃げたい。もういっそ死にたい。

 ――――いや、死のう。

 妙な冷静さを取り戻した月裏は、譲葉の体勢を直しベッドに寝かせ、布団を被せてからキッチンへと半ば無意識に歩んだ。
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