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10月11日
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[10月11日、火曜日]
早朝の人の居ない電車に揺られながら、月裏は譲葉の事を考えていた。
今朝も、いつも通り過ぎる時間を送った。
変わらない日課がこのまま定着してしまうのは、何だか不味い気がする。何が不味いかは分からないのに、これではいけない気がするのだ。
譲葉の気持ちが読めないどころか、まだ気付けてない事もたくさんあるだろう。
月裏は至らない自分を情けなく思いながら、流れ続ける見慣れた景色を、無心で瞳に映した。
職場は、空気から既に悪い。部屋に入ると澱んだ雰囲気が見えて、その段階で心が重くなる。
一番目立った場所に座る上司の顔は、今日も怪訝さを醸し出している。
恐怖は、憂鬱は、きっと死ぬまで終わらないんだ、と月裏は嘆きながらも定位置に付いた。
街灯のない暗い道を、月明かりだけが優しく照らす。
このまま家に帰らずにどこかへ姿を眩ましたならば、譲葉は自分の事を探すだろうか。
月裏は、ずっと続いている機嫌の悪さに、思考を任せ考え込む。
しかし考えた所で結局は、慣れた道から一本横にそれる事もできず、家に帰ってしまうのだ。
今日も、灯りが見える。譲葉は、充足とは程遠い日々に、何を思い過ごしているのだろう。
譲葉の心を、どうしたら救えるのか。
月裏は、自分さえ救えないのに何を考えているんだろう、と自嘲した。
鍵を開き扉を潜ると、ペンを動かしていた手元に目が留まった。芸術性を感じさせる、動きだ。
「おかえり、お疲れ様」
だが、挨拶されてすぐに目を上げる。
「……ただいま、今日も描いてたんだね」
「…ああ」
月裏は、じっと造花を見詰める譲葉の、視線の先の花を見遣る。そこには、母親が一番最後に買って来た青い花があった。
月裏は、蘇りかけた記憶から目を逸らすかのように、花からも目を逸らす。その代わり、譲葉の手元のスケッチブックへと視線を移した。
不図気付く。スケッチブックのページが、2枚目になっている。少しずれた一枚目が、ちらりと見える。
「…もしかして、完成した?」
譲葉は視線をすぐ、月裏へと向ける。そして暫く間を置いて、浅く頷いた。
「……見ても良い?」
譲葉はまだ躊躇いがあるのか、少し戸惑いながらもスケッチブックを差し出してきた。まだ白い2ページ目が、先頭になっている。
受け取りながら月裏は、昨日の譲葉の様子について思い出していた。恐らく、見せようとしてくれていたのだろうと気付く。
すぐに理解してあげられなかった、と悲嘆しながらページを一枚目に戻すと、そこには、様々な色を使って描かれた花があった。
その美しさに、繊細さに、感激してしまう。
「……凄い…これ、その青い花だよね…」
どの花を描いたか直ぐに分かるほど、丁寧に摸写されている。しかしその上で、いつも見ていた花とはどこか違う雰囲気も纏っているのだ。
玄関で寂しげに咲く花とは対照的な、美しさを兼ねた輝かしい絵の中の花。つい、目を奪われてしまう。
色合いになぜか、母親の笑顔を重ねてしまった。
「……つ、月裏さん?」
「譲葉君、上手だね」
頬を伝う雫を見て譲葉が吃驚している様子が、直接見なくともよく分かる。
「…凄いなぁ、飾りたい位だよ」
「そ、そんなには」
スケッチブックを畳み、譲葉に渡すと、譲葉は視線を上げないままそっと受け取った。
その頬が、微かに色を灯している。
月裏ははじめて見る明らかな表情の変化に、悲痛に苛まれていた心が解けてゆくのを感じた。
驚いた後、自然と微笑が浮かんでくる。
「見せてくれてありがとう、また描けたら見せてくれると嬉しいな」
「…分かった」
譲葉は恥ずかしかったのか、背を向けると、そそくさと部屋へと行ってしまった。
譲葉の感情が垣間見えた事により、騒ぐ気持ちに、月裏は一人再度口角を吊り上げた。
早朝の人の居ない電車に揺られながら、月裏は譲葉の事を考えていた。
今朝も、いつも通り過ぎる時間を送った。
変わらない日課がこのまま定着してしまうのは、何だか不味い気がする。何が不味いかは分からないのに、これではいけない気がするのだ。
譲葉の気持ちが読めないどころか、まだ気付けてない事もたくさんあるだろう。
月裏は至らない自分を情けなく思いながら、流れ続ける見慣れた景色を、無心で瞳に映した。
職場は、空気から既に悪い。部屋に入ると澱んだ雰囲気が見えて、その段階で心が重くなる。
一番目立った場所に座る上司の顔は、今日も怪訝さを醸し出している。
恐怖は、憂鬱は、きっと死ぬまで終わらないんだ、と月裏は嘆きながらも定位置に付いた。
街灯のない暗い道を、月明かりだけが優しく照らす。
このまま家に帰らずにどこかへ姿を眩ましたならば、譲葉は自分の事を探すだろうか。
月裏は、ずっと続いている機嫌の悪さに、思考を任せ考え込む。
しかし考えた所で結局は、慣れた道から一本横にそれる事もできず、家に帰ってしまうのだ。
今日も、灯りが見える。譲葉は、充足とは程遠い日々に、何を思い過ごしているのだろう。
譲葉の心を、どうしたら救えるのか。
月裏は、自分さえ救えないのに何を考えているんだろう、と自嘲した。
鍵を開き扉を潜ると、ペンを動かしていた手元に目が留まった。芸術性を感じさせる、動きだ。
「おかえり、お疲れ様」
だが、挨拶されてすぐに目を上げる。
「……ただいま、今日も描いてたんだね」
「…ああ」
月裏は、じっと造花を見詰める譲葉の、視線の先の花を見遣る。そこには、母親が一番最後に買って来た青い花があった。
月裏は、蘇りかけた記憶から目を逸らすかのように、花からも目を逸らす。その代わり、譲葉の手元のスケッチブックへと視線を移した。
不図気付く。スケッチブックのページが、2枚目になっている。少しずれた一枚目が、ちらりと見える。
「…もしかして、完成した?」
譲葉は視線をすぐ、月裏へと向ける。そして暫く間を置いて、浅く頷いた。
「……見ても良い?」
譲葉はまだ躊躇いがあるのか、少し戸惑いながらもスケッチブックを差し出してきた。まだ白い2ページ目が、先頭になっている。
受け取りながら月裏は、昨日の譲葉の様子について思い出していた。恐らく、見せようとしてくれていたのだろうと気付く。
すぐに理解してあげられなかった、と悲嘆しながらページを一枚目に戻すと、そこには、様々な色を使って描かれた花があった。
その美しさに、繊細さに、感激してしまう。
「……凄い…これ、その青い花だよね…」
どの花を描いたか直ぐに分かるほど、丁寧に摸写されている。しかしその上で、いつも見ていた花とはどこか違う雰囲気も纏っているのだ。
玄関で寂しげに咲く花とは対照的な、美しさを兼ねた輝かしい絵の中の花。つい、目を奪われてしまう。
色合いになぜか、母親の笑顔を重ねてしまった。
「……つ、月裏さん?」
「譲葉君、上手だね」
頬を伝う雫を見て譲葉が吃驚している様子が、直接見なくともよく分かる。
「…凄いなぁ、飾りたい位だよ」
「そ、そんなには」
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驚いた後、自然と微笑が浮かんでくる。
「見せてくれてありがとう、また描けたら見せてくれると嬉しいな」
「…分かった」
譲葉は恥ずかしかったのか、背を向けると、そそくさと部屋へと行ってしまった。
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