6 / 122
9月24日
しおりを挟む
[9月24日、土曜日]
譲葉を可哀想に思う。しかし思うだけで、何も出来ない自分がもどかしい。
成り行きとは言え、折角家に来たのに何一つしてあげられない。
こんな場所に来てしまって、譲葉は不幸だ。
慣れない場所で慣れない人間と住むのは、とても窮屈だろう。気持ちが休まらないのは、苦痛だろう。
月裏が、今まさにそういった心境ゆえ、気持ちだけは分かるつもりだった。
我が家でこれだけ気を張るのだ、譲葉が張っていない訳が無い。
しかし、どうすれば良いのかよく分からないのだ。何度考えても、譲葉の幸せが分からない。
――――それが、現実だ。
家に居ても辛い、かと言って、仕事場の方がましだとはこれっぽっちも思えない。
毎日の罵声が日常の一部だと、割り切れる人間が羨ましい。
毎日毎日、心に大穴を開けて傷ついているのに、それに気付かない上司は、多分これから先も、同じ日々をループさせ続けるのだろう。
変わらない未来が簡単に描けて、生まれたのはもう何度目か知れない絶望感だった。
帰宅すると、今日も譲葉は背を向け伏せていた。着ていた服は恐らく、洗濯機横の籠の中だ。
その代わり、数日に亘り何枚か残したメモが丁寧に重ねられて、枕元の携帯の下に置かれている。
譲葉は、一度教えた事は全て完璧にやってみせる。とは言え、変な行動を仕出かしている気配も無く、印象通りとことん手がかからない。
本当に居るだけだ。家に、居るだけ。
それで良いのだろうか。
月裏は疲れきった脳内で、まだ距離感の掴めない譲葉との、明日の一日を乗り切る方法を考えていた。
――――声が聞こえる。
何をやっても駄目だとか、使えない奴だとか、鬼の形相を浮かべた上司が、心無い言葉を羅列する。
自分は、只管謝罪を目前に並べ立てる。その場から走り去ってしまいたい気持ちを押し殺して、延々と続く言葉の暴力に耳を貸し続ける。
誰か助けて。
そっと呟いた直後、直ぐに気付いた。
自分が孤独である事に。助けてくれる人なんて、どこにも居ない事に。
はっと目を開くと、豆電球が点すだけの薄暗い景色が目に入った。いつも見ている景色なのに、禍々しく感じる。
じわりと汗が滲み、呼吸も速くなっている。
直ぐに吐き気が喉元まで立ち上り、月裏はキッチンへと走っていた。
吐いても吐いても、気持ち悪さが納まらない。手の震えも止まらない。
身体の不調から来るシンプルな苦痛に加えて、精神ストレスから来る苦痛が重なり、苦しくて苦しくて涙まで出てきた。
心臓も、精神状態を反映して早い鼓動をあげる。
心を支配するのは、形のない不快な恐怖だ。
永遠に変わらなさそうな未来への恐怖。自分が壊れてゆく事への恐怖。それらが混ざり合った、得体の知れない恐怖。
押し潰される。どうして良いか分からずに、苦痛の中溺れもがくしか出来ない。
月裏は呆とする脳内で、解き放たれる為の術を浮かべる。
常に支配しているその感情が、行動を促す。
――――気付けば月裏は、手に包丁を持っていた。
「……月裏さん?」
月裏が、扉の音に我に返った時、包丁は地に落ちていた。カラカラと、軽い音を立てて振動している。
「…えっと、譲葉、くん」
恐る恐る振り向くと、落ちた包丁を真直ぐに見詰める譲葉の姿が確認できた。
意識的に、笑顔を作り出す。
「えっと、眠れなくて、料理でも、しようかなって、でも落としちゃって、うるさかったね、ごめんね、起こしたね、本当ごめん」
我ながら、可笑しな言い訳だ。
しかし譲葉は、何も言わない。唯々、包丁を凝視するだけだ。
月裏は、見られていたかもしれない、と広がる不安感から、一秒でも早く逃げる方法を模索する。
「……つ、次は静かにするから、もう一回寝てきなよ」
「…分かった」
譲葉は浅く頷くと、部屋を出て行った。
笑顔が落ちる。無意識に控えていた呼吸を解き放つ。また涙が溢れてきた。
時々、こう言う事がある。不安感が形で体に現れて、自分を酷く苦しめる時がある。
頭痛や嘔吐、震え、止まらない涙が、容赦なく襲ってくるのだ。
不眠は毎日の事で、加えて症状が出ると、いつも以上に不安で仕方が無くなる。
死にたいとの思いは、毎日持っている感情だ。別に、今日に限ったことではない。
実際月裏には、自殺経験がある。
もちろん未遂に終わっているが、既に何度も実行していた為、体には傷や痣が多数ある。
リストカット痕も甚だしく残っているが、どれも実際死のうとしてつけたものであり、相当くっきりと残ってしまっている。
両腕の傷は、絶対に見られたくない箇所の一つだ。
譲葉が家に来ると分かった際、一番に浮かんだのはこの事だった。
不安定な状態で、譲葉を世話できるか。答えは明らかにノーだ。分かってはいた。
それでも拒否する訳には行かずに、成り行き任せで引き受けてしまったが、今更強い後悔に陥る。
やはり、無理だ。
譲葉には悪いが、一緒に過ごせる自信が無い。祖母に謝って、譲葉が暮らしてゆく別の方法を探して、離れる選択をしよう。
譲葉を可哀想に思う。しかし思うだけで、何も出来ない自分がもどかしい。
成り行きとは言え、折角家に来たのに何一つしてあげられない。
こんな場所に来てしまって、譲葉は不幸だ。
慣れない場所で慣れない人間と住むのは、とても窮屈だろう。気持ちが休まらないのは、苦痛だろう。
月裏が、今まさにそういった心境ゆえ、気持ちだけは分かるつもりだった。
我が家でこれだけ気を張るのだ、譲葉が張っていない訳が無い。
しかし、どうすれば良いのかよく分からないのだ。何度考えても、譲葉の幸せが分からない。
――――それが、現実だ。
家に居ても辛い、かと言って、仕事場の方がましだとはこれっぽっちも思えない。
毎日の罵声が日常の一部だと、割り切れる人間が羨ましい。
毎日毎日、心に大穴を開けて傷ついているのに、それに気付かない上司は、多分これから先も、同じ日々をループさせ続けるのだろう。
変わらない未来が簡単に描けて、生まれたのはもう何度目か知れない絶望感だった。
帰宅すると、今日も譲葉は背を向け伏せていた。着ていた服は恐らく、洗濯機横の籠の中だ。
その代わり、数日に亘り何枚か残したメモが丁寧に重ねられて、枕元の携帯の下に置かれている。
譲葉は、一度教えた事は全て完璧にやってみせる。とは言え、変な行動を仕出かしている気配も無く、印象通りとことん手がかからない。
本当に居るだけだ。家に、居るだけ。
それで良いのだろうか。
月裏は疲れきった脳内で、まだ距離感の掴めない譲葉との、明日の一日を乗り切る方法を考えていた。
――――声が聞こえる。
何をやっても駄目だとか、使えない奴だとか、鬼の形相を浮かべた上司が、心無い言葉を羅列する。
自分は、只管謝罪を目前に並べ立てる。その場から走り去ってしまいたい気持ちを押し殺して、延々と続く言葉の暴力に耳を貸し続ける。
誰か助けて。
そっと呟いた直後、直ぐに気付いた。
自分が孤独である事に。助けてくれる人なんて、どこにも居ない事に。
はっと目を開くと、豆電球が点すだけの薄暗い景色が目に入った。いつも見ている景色なのに、禍々しく感じる。
じわりと汗が滲み、呼吸も速くなっている。
直ぐに吐き気が喉元まで立ち上り、月裏はキッチンへと走っていた。
吐いても吐いても、気持ち悪さが納まらない。手の震えも止まらない。
身体の不調から来るシンプルな苦痛に加えて、精神ストレスから来る苦痛が重なり、苦しくて苦しくて涙まで出てきた。
心臓も、精神状態を反映して早い鼓動をあげる。
心を支配するのは、形のない不快な恐怖だ。
永遠に変わらなさそうな未来への恐怖。自分が壊れてゆく事への恐怖。それらが混ざり合った、得体の知れない恐怖。
押し潰される。どうして良いか分からずに、苦痛の中溺れもがくしか出来ない。
月裏は呆とする脳内で、解き放たれる為の術を浮かべる。
常に支配しているその感情が、行動を促す。
――――気付けば月裏は、手に包丁を持っていた。
「……月裏さん?」
月裏が、扉の音に我に返った時、包丁は地に落ちていた。カラカラと、軽い音を立てて振動している。
「…えっと、譲葉、くん」
恐る恐る振り向くと、落ちた包丁を真直ぐに見詰める譲葉の姿が確認できた。
意識的に、笑顔を作り出す。
「えっと、眠れなくて、料理でも、しようかなって、でも落としちゃって、うるさかったね、ごめんね、起こしたね、本当ごめん」
我ながら、可笑しな言い訳だ。
しかし譲葉は、何も言わない。唯々、包丁を凝視するだけだ。
月裏は、見られていたかもしれない、と広がる不安感から、一秒でも早く逃げる方法を模索する。
「……つ、次は静かにするから、もう一回寝てきなよ」
「…分かった」
譲葉は浅く頷くと、部屋を出て行った。
笑顔が落ちる。無意識に控えていた呼吸を解き放つ。また涙が溢れてきた。
時々、こう言う事がある。不安感が形で体に現れて、自分を酷く苦しめる時がある。
頭痛や嘔吐、震え、止まらない涙が、容赦なく襲ってくるのだ。
不眠は毎日の事で、加えて症状が出ると、いつも以上に不安で仕方が無くなる。
死にたいとの思いは、毎日持っている感情だ。別に、今日に限ったことではない。
実際月裏には、自殺経験がある。
もちろん未遂に終わっているが、既に何度も実行していた為、体には傷や痣が多数ある。
リストカット痕も甚だしく残っているが、どれも実際死のうとしてつけたものであり、相当くっきりと残ってしまっている。
両腕の傷は、絶対に見られたくない箇所の一つだ。
譲葉が家に来ると分かった際、一番に浮かんだのはこの事だった。
不安定な状態で、譲葉を世話できるか。答えは明らかにノーだ。分かってはいた。
それでも拒否する訳には行かずに、成り行き任せで引き受けてしまったが、今更強い後悔に陥る。
やはり、無理だ。
譲葉には悪いが、一緒に過ごせる自信が無い。祖母に謝って、譲葉が暮らしてゆく別の方法を探して、離れる選択をしよう。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
殺戮兵器と白の死にたがり
有箱
現代文学
小さな島の制圧のため、投下された人間兵器のアルファ。死に抗う姿を快感とし、焦らしながらの殺しを日々続けていた。
その日も普段通り、敵を見つけて飛び掛かったアルファ。だが、捉えたのは死を怖がらない青年、リンジーで。
真夏の温泉物語
矢木羽研
青春
山奥の温泉にのんびり浸かっていた俺の前に現れた謎の少女は何者……?ちょっとエッチ(R15)で切ない、真夏の白昼夢。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
【R18】もう一度セックスに溺れて
ちゅー
恋愛
--------------------------------------
「んっ…くっ…♡前よりずっと…ふか、い…」
過分な潤滑液にヌラヌラと光る間口に亀頭が抵抗なく吸い込まれていく。久しぶりに男を受け入れる肉道は最初こそ僅かな狭さを示したものの、愛液にコーティングされ膨張した陰茎を容易く受け入れ、すぐに柔らかな圧力で応えた。
--------------------------------------
結婚して五年目。互いにまだ若い夫婦は、愛情も、情熱も、熱欲も多分に持ち合わせているはずだった。仕事と家事に忙殺され、いつの間にかお互いが生活要員に成り果ててしまった二人の元へ”夫婦性活を豹変させる”と銘打たれた宝石が届く。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる