黒猫は戻らない

有箱

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 青年は基本的に、一日中家にいるらしい。一緒にパンをかじり、体を洗われ、星を見たり、優しく撫ででもらったり。そんなことの繰り返しで時間は紡がれた。
 時々、食料の調達や散歩に出たりもした。今ではすっかり、固いパンも食べられる。足の痛みも随分緩和し、今はゆっくりだが横を歩けるようになった。

 お日様が笑う時間帯なのに、ここはいつだって暗い。ゾンネは太陽を避けるように生きていた。短い道を一本抜けた先、明るい世界があっても影を選んだ。
 一本道の向こうから、誘うように光が線を描いている。

「そっちに行きたいのか? 行ってもいいぞ。もう歩けるんだから」
「……行けないよ。酷い目に遭うのは怖い」

 人間に僕らの声は届かない。ゾンネも例外ではなく、何も答えてはくれなかった。
 ゾンネが光から体を背ける。瞬間、二つの声が聞こえた。恐らく、明るい国から聞こえているのだろう。男の声には圧が、女の声からは恐れや拒絶が感じ取れた。

 喧嘩でもしているのかな――探るより早くゾンネが翻り、駆け出した。光の方へと迷いなく突き進んでゆく。驚いたものの、見失わないよう追いかけた。

 ゾンネが止まったのは、道を出てすぐのところだ。若い女性が、ボロボロの男に手を捕まれている。しかも、男は二人組だった。

「何やってんの?」

 あの時と同じ低音が響く。場がピリリと凍りつき、弾けた。男二人が、容赦なく飛びかかってくる。

「人殺しのゾンネだ! やっちまえ!」

 二対一では分が悪かったのだろう。ゾンネは激しく殴られ、血を流していた。僕も一度は男に飛びかかったが、はね除けられ死角に隠れてしまった。出会いの日を思いだし、体が強く震えた。
 


 痛々しい姿で帰宅する。満足行くまで殴られていたゾンネは、全身を傷だらけにしていた。そのくらい懸命に戦ったのに、気づいたら女性も消えていた。

「びっくりしただろ、ごめんな。でも、逃げずにいてくれたんだな」

 涙を含む声に横顔を伺う。当然顔色は悪かったが、瞳は乾いたままだった。

「俺さ、一回だけ人を殺してるんだ。随分と若かった頃にね。今じゃ強く後悔してんだけど、そんなのは誰も知らない。俺は他者から見て殺人鬼でしかないんだ。だから俺になら何してもいいし、何なら殺してもいいと思ってるらしい。向こうの奴らも、ここの奴だって皆そうだ。どうやら一度血で染まったら、一生取れないようだぜ」

 ゾンネは自らの手のひらを睨む。温かで優しい手のひらに、何が見えるのか僕には分からなかった。

「でも、お前は違うもんな」

 瞳が僅かに持ち上がり、僕を捉える。

「お前、黒猫じゃないんだろ。汚れか何かで黒くなってるだけなんだろ」

 瞳から赤い気配は消え、青黒い悲しみが宿っていた。溢れる苦痛を和らげたくて、そっとすり寄る。喉を鳴らすと、少しだけ色が澄んだ。

「今日も洗うか。それから飯にしよう……固いパンしかないけど」

 苦笑したゾンネは、いつかちゃんとしたのを食いてえな、と冗談半分に呟いた。
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