黒猫は戻らない

有箱

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 青年――ゾンネの家はもう一つの世界にあった。崩れた煉瓦と歪んだ木材、その他色々な資材を組み合わせ、器用に空間が作られている。
 普段なら落ち着くはずの小さい空間は、僕に安心感をくれなかった。床である土の上が、あまりに冷たいからかもしれない。

「食える?」

 真横から差し出されたのは、小さくカットされたパンだった。とは言え、知っているパンとは全然違う。ゾンネの持つ錆びたナイフの臭いがするし、何より乾いて固そうだ。
 しかし、空腹には耐えられず一口かじって止まった。やっぱり美味しくない。

「やっぱだめか」

 躊躇いを沸かしている間に、ゾンネは摘まんでいたパンを自らの口に放り込む。カットされていないパンも、噛みちぎって次々と体内に納めていた。

「じゃあ、これ食ったら行くか」



 左腕で優しく抱えられ、夜と影の中を行く。僕らを眺めていた月さえ、死角に収まる場所で止まった。不安も一緒に到着したのは、どこかの建物の裏だった。
 下ろされかけて拒む。鼻を捻る臭いが着地を拒否したのだ。臭いは、広がるゴミの海が発していた。

 ゾンネはゴミに手を突っ込み、パンを一つ救いだす。裏側は汚れていたが、表面は割りと綺麗だった。
 よく見ると、様々な箇所でパンが泳いでいた。ゾンネは僕を抱えたまま、ナイフで汚い箇所を切り取る。それを煤けた麻袋に放り込んだ。

「この辺、捨てられてそんな経ってないと思うから、まだお前でも食えると思う」

 呟きながら、何度か同じ行動を繰り返す。帰宅後もてなされたパンは、食べられたもののやっぱり美味しくなかった。



 食後すぐ、ゾンネは不格好な皿を二枚持ってきた。平皿と深皿があり、両方に水が張っている。どちらも、僕が入ってしまえそうな大きさだ。
 行動に戸惑うのも束の間、青年は平皿に僕を盛り付けた。驚いて逃げかけ、抑えられる。

「じっとしてろよ、洗ってやるから」

 しかし、優しい声が“恐ろしい何か”ではないと説明してくれた。言いつけ通りじっとしていると、ゾンネの手から背中に水がかけられる。それから、温かい手で擦られた。

「随分汚れてるなー」

 呟くゾンネの視線の先――僕の下にくすんだ水があった。
 
 一生懸命洗ってくれたが、僕の毛は白に戻らなかった。それどころか、薄まる気配すらない。
 どうやら僕は、このまま黒猫でいるしかないようだ。嫌われ、蹴飛ばされる黒猫に。美味しいパンも、人々の甘い声も恋しくて堪らないのに、きっともう戻れない。
 ただ、穏やかな瞳に見つめられる瞬間だけは、唯一悪くないと思った。
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