あと百年は君と生きたい

有箱

文字の大きさ
上 下
8 / 9

6-3

しおりを挟む
 真夜中、タクシーで病院へ向かう。判断に迷ったが、マネージャーとも相談し訪問を決めた。もちろん、人の目には神経を尖らせて。

 杏は眠気に耐え、待っていてくれたらしい。目が合うなりそっと笑いかけてくれた。病に蝕まれた弱い姿で、だったが。

「やっほー志朗元気?」

 たった三ヶ月。たった九十日。その程度の期間で、杏の体は変わってしまった。
 死の兆候が宿り、生きているのが不思議なほど弱り果てている。ベッドからも起きられず、手さえあげられないほどに。

「うん……」

 それでも明るく振る舞う姿に、全身が熱くなった。熱は目の奥へと集まってくる。だが、なんとか堪え、本来の目的を口にした。

「物語、良かった。監督もいいねって。映画にもしてくれるって」
「ほんと、やった」

 数分ももたなかったが。

「え、なんで泣いてんの」
「いい話だったから思い出し泣き……」
「何それ笑える。ねぇ、映画ができたらなんだけど」

 杏の要望へ、自然と耳が吸い付く。先を聞き逃さないよう、涙も無理に押し込めた。

「公開、五十年後にしてほしいの。その時まで志朗が俳優を続けてて、人気だったら名前も関係も全部言って。あ、でも映画ができたタイミングで主演のオファーは受けるようにしてね」

 言葉の背景に間近な死を見る。怒鳴って否定したかったが、無責任に叫べなかった。理由を問いただしたかったが、それさえできない。
 死神を目の前に置くような、今の杏に言える訳がなかった。否定の為の文句がなかった訳じゃない。けれど、できなかった。
 悲しみに笑顔の仮面を貼り付ける。

「関係さ、恋人って言っていい?」
「うーん、それまでに好きな人ができなかったらね」
「できないよ」
「好きになる努力はしてよ」
「気が向いたらね」

 今はただ、一生懸命映画と向き合おう。それで、もし完成まで生きていてくれたら――。
 
 会話から、たった一ヶ月だった。杏はあっさりと息をやめた。映画は完成しなかった。
しおりを挟む

処理中です...