短編小説集

有箱

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桃も黄も、赤も白も、そして青も。

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 半透明な地面を、僕は歩いている。一人ぼっちで歩いている。
 下に見えるのは薄い青色だ。あの頃見ていたような、雲一つ無い青空によく似ている。

 無限に広がる空間は、何色とも捉えられず広がっている。
 いや、色がはっきりしないのは、自身の識別能力が弱っているからかもしれない。

 宛ても無く、空間を少し歩いてみた。
 少しして意味を失って、その場で座って休んでみる。

 そうして気が付いた。ここには音がない。誰かの声も、雑音も足音も、自然が奏でる音も無い。
 人の影も、気配も、そもそも物体と言うものがどこにも見当たらないのだ。

 本当に一人だ。自分が何を考え、何を思い、今ここに居るのかさえ分からなくなっている。
 ¨無¨だ。例えるならば、無という一文字が良いだろう。

 そんな空間で、何も分からず下ばかりを見ていた。

 とある時期には桃色の地面が広がり、とある季節には黄色の眩しげな色が広がっている。また別の季節には茶色掛かった赤色の絨毯が、そうしてまた別の時には真っ白な空間がそこにあった。

 ここがどこか分からないまま、自分が何かも分からないまま。

「お母さん、ここで良いの?」

 初めて、誰かの声が聞こえた気がした。
 自分でも使用していたはずの、言葉の意味は理解できなかったが。

 けれど、不思議な事に心が満たされていた。正体不明でありながらも、心が満たされていた。

「お母さん、この花が良いと思うの」

 遠くで鈴が鳴るかのごとく、一瞬で且つ小さな声は、虚無の中を色付ける。
 理解もままならないのに、感覚で¨嬉しい¨を感じている。

 その後も、何種類もの色彩の上を歩きながら、誰かの声に耳を済ませ続けた。

「お母さん、あの時のこと覚えてる?」
「私ね、本当に大好きだったの」
「お母さん、どうやって言ったら安心してくれると思う?」
「ねぇ、もう大丈夫よって言いたいの。私はこんなに大きくなったんだよって」

「パパはずっと、私の事を心配していたから」

 ふっと、何かが過ぎった。少し深い青色の地面が、白い綿を交えて広がっている。

 初めて、半透明の地面の向こう、広がる空間の先に人影が見えた気がした。
 記憶が消えてしまっているのか、誰であるかは分からない。
 けれど、嬉しかった。見つけられて嬉しかった。

 彼女は手を合わせる。目の前の物体に、花を添える。
 にっこりと笑って、もう一つの影に向かい語りだす。
 今まで聞こえていた、あの声で。

「パパ、聞こえていますか? 私はこんなに大きくなりました。お母さんと一緒に仲良く楽しく暮らしているよ。大変な事もあるけど、幸せにやってるよ」

 その時、突然地面が溶け出した。その代わり、様々な思い出が映写機から映されるかのように広がりを見せる。

 そうだ、やっと分かったよ。
 僕は、幼い君を残して死んでしまったんだ。けれど死に切れなくて、未練がましく空に上ってしまったんだね。

「だからパパ、パパもゆっくり眠ってね」

 すっと、何かが溶けた。
 嬉しくて嬉しくて、やっと思いだした一つの言葉を口にする。

「――――ありがとう」

 変わらないその笑顔に、手を振った。
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