君に咲く花

有箱

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最終話

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「――――シン!!!」
「…え、大丈夫カノン…」

 どんなに捜し求めても見つからなかった存在が、すぐ目の前にあった事にカノンは唖然とし、一瞬呼吸を忘れる。
 だがすぐに、先程の長い時間が夢であったと理解した。

「シン!シン!会いたかっ…!」

 叫ぶと同時に目の前が澱んで、ついその場で体を強張らせた。落ちる錯覚に、驚いて鼓動が高鳴っている。

「…カノン」
「…シン…僕…」

 背にベッドがあるのにも関わらず、体が不安定感に襲われる。目の前のシンも、ぼんやりと形を歪ませる。
 目の前で色彩のみになってゆく形を見詰めながら、カノンは恐怖に雫を滴らせた。

「……嫌だ、シン…どこにも行かないで…」

 シンは伸ばされた手を取り、指先を絡めた。手はがたがたと震えており、感情が伝わってくる。

 カノンの焦点は合っておらず、すぐに視力の低下を悟らせた。
 未来が見える。それも、そう遠くない未来だ。
 ずっと目を逸らしていた未来が、手に取れそうな距離まで来ている。

 ――――もう、駄目だ。

「…カノン、俺はここだ」

 絡めた指に少し力を込めて、存在を分からせるとシンはするりと外した。
 そしてから、そっと立ち上がる。

「……すぐ戻ってくるから、少し待ってて」
「…シン…?」



 カノンは恐怖していた。遠くへ行ってしまうシンを、追いかけられないもどかしさにまた涙が溢れる。

 昨日血を流してから、急速に体が衰弱し、弱っているのが自分自身よく分かる。死に向かっているのも痛切に感じる。
 世界が、ついには色も失い霞んでゆく。
 意識も段々遠ざかっていって、刻々と感覚を失わせてゆく。

 せめて、最期はシンと共に。

 カノンはシンが戻る事を信じて、どうにか意識を保ち続けた。



 カノンが葛藤している頃、シンはキッチンにきていた。

 先程振り上げた包丁は、手の間を擦り抜けて滑り落ちていた。それがそのまま、落ちた場所で制止している。
 その後、拾い上げる前にカノンの叫び声が聞こえ、無我のまま駆けつけたら、その時には意識が無かった。

 何度も何度も突きつけられる恐怖に、心が悲鳴を上げている。自分でも厭きれるほど表情には出ないのに、心底から全て恐れに染められている。

 このまま、最期が訪れるのを待つなんて恐怖、やっぱり耐えられると思えない。
 ――――だったら、目に映る未来を塗り替えてしまおう。

 シンは、落ちていた包丁を震える右手でそっと拾い、落とさない為の支えとして左手も上から重ねた。



 エルの元に、一本のメールが入った。
 しかし丁度勤務中で、マナーモード設定にしていた事に加え忙しさに走り回っていた為、エルは着信に全く気が付かなかった。



「カノン、戻った」
「……シン…シン…」

 カノンは、縋りつく子どものように瞳を潤ませては、姿を懸命に捉えようとしている。
 しかし見えないのか、近付いても視線が絡む事は無い。体も、足も、腕も、動く気配を見せない。

 シンは右手を前に、綺麗な髪を掬い取り、撫でた。涙に濡れて少し艶っぽくなっている、愛しいその顔をじっと見詰める。
 そしてから、とある場所に人差し指の先を強く突き立てた。

「…カノン、ここ傷つけても良い…?」
「…………え…?」

 指先は、胸の真ん中を指している。
 その意味は、今のカノンにでも直感的に分かるだろう。

 指先から、細かな鼓動が伝わってくる。
 カノンは思考が追い付かないのか、唖然と目の前を見詰めている。
 しかし、少しして目を閉じると、仄かな微笑を表情の上に降らせた。

「…良いよシン、…好きなだけ傷つけて…」

 シンは人差し指を静かに離すと、後ろ手に持っていた包丁を目前に出した。
 シャツのボタンを開けて、出来るだけ苦しまないように、刃先を心臓の左上、肋骨の間に据える。

「カノン、おやすみ」
「…………おやすみ…」



 ――――刃先が心臓を貫く音を、シンは確りと聞いていた。
 跳ね返った血を指先で擦り、舌に宛てる。

 じわりと広がる味で、心が落ち着いてゆく。この先描いた未来を見据えながらも、心が安らいでいる。

 シンは、突き刺した包丁を勢いよく抜いて、別の箇所も、繰り返し繰り返し、何度も突き刺した。
 赤い血飛沫が、その白さを染めてゆく。

 そして最後に、汚れきった包丁の鋭い刃先を、そっと自分の首元にも宛がった。



¨シン、よく眠れた?¨



 そう訊ねる声が、今にも聞こえてきそうだ。
 目を閉じたカノンは、相変わらず美しい。思わず溜め息が出そうな程に。

「…うん、よく眠れるよカノン…」

 シンは体をカノンの傍らに寄せ、冷たい刃を思いっきり引いた。



 エルは休憩時間になり、漸くメールに気付いた。
 すぐに折り返し電話したが反応は無く、加えてその内容が不可解で嫌な感じしかしなかった為、休憩時間を超過する覚悟で車を走らせた。

 発信先はシンからで、内容はただ端的に、
¨エルさん、ごめんなさい¨
 とあるだけだった。


 二人の家に辿り着き、呼び鈴を鳴らしてみるが足音一つ聞こえない。それどころか物音一つ、気配一つ感じない。
 エルは取っ手を引き、扉を開いた。いつも通り鍵はかかっておらず、容易に開けた。

 メールの文面を脳内に浮かべつつ、リビングの扉を開くもリビングにシンはいない。
 だったらと、寝室に向かってゆく。いつもカノンが、笑顔で自分を待っていた部屋の扉を開く――――。



 エルは言葉を失っていた。
 見知った部屋の筈なのに、見た事もない場所だと錯覚してしまいそうなくらい変貌している。

 元々汚れていたシーツは、汚れが分からなくなるほどに真っ赤に染まり、床や壁までが血に染まっている。
 そして、そこで寄り添い合って横たわる二人が、既に死んでいるのだと一目見て分かった。

 しかし、部屋の与える恐怖感や残酷さに比例して、二人の表情は穏やかだった。
 ――――まるで、幸せだと言っているかのように。
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