君に咲く花

有箱

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 気付けば闇の中だった。視界が上手く形を捉えてくれない不安感に、すぐさま横に感じる存在を引き寄せる。

「…カノン?」

 シンの、寝起きに似たはっきりしない声が聞こえる。その服を無造作に掴み、温度を引き寄せた。

「…シン…」
「怖い夢?」
「……うん」

 シンは返答しないまま、くびれた腰の下に腕を通し、優しく背中を包む。決して強健ではないが、その大きな体は心地良い安堵感を連れて来る。

「…シンは、僕を離さないで」

 胸元に顔を埋めていた所為で声がくぐもったが、シンはあまり間を空けずに返事をくれた。

「…うん、分かった」

 カノンは、己を蝕んでゆく異変をひしひしと感じ取っていた。
 自分の体なのだ、誰よりも自分の事は分かる。
 しかしそれでも、壊れるのが目に見えても、生活に変化を見出すのが怖くて、未だに、ずるずると同じ日々を求めてしまっている。

 あれからまた何度か入院を勧められたが、その度に断りを入れてきた。どうしても離別を恐れてしまうのだ。

 それにカノンは、心の隅で思ってしまっていた。
 ――――いつか死んでしまっても良い、と。

 それが自分勝手な感情だと分かっていても、シンを一人にすると分かっていても、それでも、終わりがあるなら幸せの中生きたい、と考えてしまうのだ。
 もう葛藤が無いといえば、それも嘘になるが。

 もし、もしもこの先、シンから病院を薦めてきたならば、その時ばかりは素直に受け入れようか。

 無い事を願いながら、カノンはまた葛藤を巡らせ始めた。



 シンは、胸の中で眠りに落ちたカノンの、襟足の髪を触っていた。
 触れた肌に、かさ蓋の感触を見つける。
 はっきりとは忘れてしまったが、ここ数年の、いつかに付けたものだ。

 シンは、自ら血を見せてくれるカノンに、縋ってしまっていると自覚していた。
 自分の血を見ても落ち着く事は出来るが、元々自分の存在を嫌っているシンにとって、その血は一時的な抑制役に過ぎなかったのだ。

 それがカノンの物を見た瞬間、持続効果があるのに気づいてしまった。
 そこから依存に取り付かれてしまい、体が弱いと分かった後も続けに続けてきてしまった。

 カノンを一番に考えるならば、病院へと送り出し、体を治すのが最善の選択だろう。
 そう、頭では分かっているのだ。

 けれど、自分が苦しむと分かっていては快く送り出す事もできず、その体を手の届く所に置いておきたくなってしまう。
 ――――なんて我がままなのだろう。



 エルは、カノンの元を定期的に訪問していた。
 二人が、通院は愚か入院に応じてくれないなら、せめて、せめて自分が訪問診察を続ける事で見守ろうと決めていた。
 来る度に辛くなるけれど。苦しくなるけれど。

 最近は、玄関も予め鍵が開けられた状態になっている事が多く、帰宅際も、あの通り残すのは声だけだ。

 シンとは、まともに会っていない気がする。
 彼の気持ちが今どうなっているのが気になるところだが、会えば可笑しな言葉を吐いてしまいそうだった為、敢えて距離を有るがままにした。

「カノンくん、こんにちは」

 入室した時、カノンは眠っていた。音にも気付かない位だ、相当疲れているに違いない。
 細い睫毛が、伏せられている事で長さを強調している。白く繊細な髪も、枕に無防備に散らされていて、とても綺麗だ。

「…もう良いでしょ…?」

 顔色の青さも、傷の赤さも、痛々しいのに非常に美しく映えている。
 エルは新たに増えた傷口を、上から下へと視線でなぞりながら、悲しげに俯いていった。



「カノン、お早う」

 シンの落ち着いていて低い声に動かされ、カノンは現実へと意識を戻す。

「………シンお早う、よく眠れた?」
「うん」

 ベッド脇で座り込みカノンを見詰めるシンは、珍しくどこか物憂げだ。深刻さは無いが、明らかに顔色が違う。

「…辛いの?」

 焦点をカノンへと戻したシンは、首を浅く振りゆっくりと立ち上がった。

「ううん、何も。…ご飯作る、食べる?」
「うん、食べる」
「出来たら、また来る」

 カノンは、去ってゆく背中が扉の向こうに消えるまで見詰めていたが、その後直ぐに、昨夜細い手首に付けた傷を見た。
 切り口に付いた血は綺麗に舐め取られていて、残されたのは傷口のみとなっている。他の傷と紛れてしまいそうなくらいに、線のみだ。

 カノンは少し濡れた傷口を、自分でも舐めてみたが、あまり血の味はしなかった。



 シンは、包丁を握っている手が震えている事に気付いた。とは言え、落としてしまうほど激しい震えではなかった為、スルーしておく。

 カノンの眠る顔は、とても美しい。それはまるで、眠り姫みたいに。死に顔みたいに。
 シンは言葉で言い表せない不安で、胸の中をいっぱいにし始めた。

 昔の出来事も最近の出来事も、消えて溶けてゆく中で最後に残してゆくのは不安要素ばかりだ。
 見ないようにして来た未来が、段々近づいて来ているのがよく分かる。

 シンはそっとシャツの袖部分をあげると、徐に包帯を解き、線の上に線を重ねた。



 夜、二人は横になり、恒例のようにシンがカッターナイフをその手に握った。
 刃先が錆びれ始めていて、見るからに危なそうだ。

「…新しいの、持って来る…」

 移動しようと動いたシンのシャツを引っ張り、カノンは動きを制止した。
 目の前に、びっしりと傷の並んだ左腕を差し出す。

「…良いよ、寝ちゃいそうだから、それで」
「…分かった」

 出した刃を丁寧に腕に宛てると、シンはゆっくりと力を加えていった。
 漏れ出す血を指先でなぞっては、指に付着した血を舐めとる。そうしながらも、視線は小さく浮かぶ血溜まりに注がれている。

 眠気に襲われたカノンは、舌先が傷に触れる感覚に満たされながら目を閉じ、ゆっくりと感覚を遠ざけていった。
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