君に咲く花

有箱

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 長い長い、冬が去ろうとしている。しかし春に近付いた所で、直ぐに寒さが緩和する訳ではない。

 やはり、三人の脳内に定着したその通り、風邪は一時的だったらしく、それからも何ら変わらない日々を送っていた。



「お早う、よく眠れた?」
「うん、寝れた」
「良かった」

 シンの視線は今日も、腕に出来た傷口に向いている。血が滴り落ち、赤く染まったシーツも交互に見詰める。

「ご飯作る、待っててくれ」

 少し枚数が減り軽くなった毛布から、するりと抜け出しベッドを降りる。

「あ、僕も起きる」

 その行動を、カノンも追いかけた。


 廊下を歩きながら―――横目にチラついたのか、シンがカノンの腕元をじっと見詰めはじめた。
 カノンは視線に気付くと、にっこりと微笑み腕を上げる。

「舐めて良い?」

 シンは、頷いたカノンの手を取り袖を捲くると、その場で止まり、少し屈んで傷口を舐めた。
 しかしそれは、長い時間続く事は無かった。

「もう良いの?」
「うん」

 付着していた血を少し舐め取った所で、直ぐにやめてしまったのだ。気分でも変わった、と言わんばかりに。

「何食べたい?」
「そうだなぁ、今日はまだ温かい物かな!」

 カノンも最近、シンからの血の要求が減少していることに気付いていた。それでも、勿論頻繁にあるが。
 だが、イコールで調子が良いのだと捉える事で、喜びへと転換させていた。

「まだまだ寒いよね~…」

 フワフワと髪を揺らして、一歩前に進もうとしたカノンの体が、大きく前のめりに動く。シンは反射的に、細い体を支えた。

「…ごめん」
「ううん」

 最近も、こういう事が連続して起こっている。
 とは言え、立ち眩みやふら付きを起こしても、カノンの表情は直ぐに柔らかく戻る。

 その為、よくある事だと大して気にしないようにしていた。それは本人であるカノンも、横で見ていたシンも同じだ。

「まだ、ちょっと寝る?」
「うん、ご飯食べたら寝る」

 これまでも続いてきたように、日々はまだまだ、変化の無い日常を続けてゆく筈だ。
 少しずつ、何気なく、壊れている部分はあれど、それなりには。



 食後、カノンは寝室に来ていた。どさりとベッドに横になる。
 シンの前では気付かれないようにしていたが、ここ最近また体が重い。

 と言っても、昔から、長期間に渡り体調を崩し続ける事は大して珍しくない。
 その為、シンの前でもエルの前でも、簡単に取り繕う事が出来た。

 何気ない寝返りにより、傷口が擦れて痺れる。しかし、その痛みは不快ではなかった。
 寧ろ、心地良い。決して痛みに強い訳ではなく、傷をつけられている時もまだ表情は歪む。痛みに対する、恐怖もまだある。

 だが心が、傷つけられる行為に満足もしているのだ。
 この行為でシンを守れていると思えば、この膨大な傷口も勲章に見える。

 ――――もう絶対に、誰の死も見たくはないから。

 忌まわしい過去の記憶を引き出しながら、カノンは傷跡を、袖の上からそっと撫でた。



 シンはリビングにて、カノンの座っていた席を眺めていた。
 柔らかい髪も細く白い体も、その白さに映える痛々しい傷跡も、美しい顔立ちで作られる純粋なその笑顔も、シンの心を埋め尽くす。

 もう、カノン無しでは生きられない。それは、とうに気付いている。
 居なくなってしまったら、また自分は一人ぼっちで苦しむ事になるだろう。

 シンは降りてきた想像から逃げる為、ポケットに忍ばせておいた小型のカッターナイフを取り出し、そっとズボンの裾をあげた。

 足首には、薄くなった傷跡に紛れて、新しい傷跡が幾つもあった。



 夜は何時もの様に、カノンから傷を作り見せてくれる。その行動を、止めようという気にはまだなれない。
 血が流れる様子を見ていると安心感が包むし、誘われるように味も求めてしまう。

 カノンがどんな表情をしているのかは、シンからは見えない。しかし少なくとも、嬉しいなんて事は無いだろう。

「…じゃあ、お休みなさい」
「おやすみ」

 同棲する前、カノンが自分に言い放った言葉から、好きで傷を受け容れている訳ではないと知っている。

 あの時、どうして自分が受け容れたのか。

 改めて考えた時、当時カノンのしていた――泣いてしまいそうな――顔を思い出した。





「シンは?」
「買い物に行ってるよ」
「そうですか」

 前回の訪問と、ほぼ日を隔てずにやってきたエルは、また増えた傷口を見ていた。
 そしてから、苦しげな息遣いに耳を澄ます。

「…調子悪そうですね」
「うん、いつも通りだけどね」

 冗談交じりの笑い声が、エルの心に靄々とした感覚を植えつける。

「手当てしますね」
「えっ、大丈夫だよ」

 カノンの拒絶を擦り抜けて、エルは鞄から消毒液とガーゼ、そしてピンセットと包帯を取り出す。

「今日のは何時もより深いので」
「そう、かな」
「そうですよ」

 淡々と言い放つ、エルの纏う雰囲気が何だか禍々しい。俯き気味の真剣な眼差しが、傷口を睨んでいるように見える。

「…エルさん、怒ってる?」
「…そう見えますか?」

 だが、顔を上げたエルに、怒りの色は見えなかった。やんわりと、情けなさげに首を傾げる。

「怒ってなさそうだね」
「…怒るというよりは、やっぱり心配ですね」

 当初から、少しも薄れないまま向けてくれるエルの優しい気遣いに、カノンは純粋に喜びを抱いた。

「大丈夫だよ、実際やっていけてるんだし」

 しかしエルは正直、受け容れて行動へ映してもらえないのを、もどかしく思っていた。
 いつも上手い事流されてしまい、結局改善一つ無く、異常な一日がリピートするだけだ。

「………カノンくんはシンくんの事、どう思っているのですか?」
「どうって…うーん…大事な人?守りたい人?そうだ、言うなれば¨家族¨みたいな?」
「…そうですか、兎に角大事な人なんですね」

 だが何度尋ねても、カノンはシンに対しての見方を変えず、大事だと言い張る為、直接な言葉で制止をかける事は出来ないのだ。

「うん」
「でも、自分を犠牲にしすぎるのも考えものですからね」
「うん、分かってる、大丈夫だよ」
「なら、よし」

 エルは、顔面蒼白にしながらも幸せそうに笑うカノンの頭を、自身も笑顔で何度かぽんぽんと撫でると、静かに部屋を出て行った。

 ――しかし玄関の扉を潜った直後、表情が崩れるのを我慢する事が出来なかった。
 何時しか、エルの中に満ちていた感情が色を混じらせ、得体の知れない渦を湧き上がらせる。

「エルさん?」

 エルの目の前に居たのは、普段ではあまり目にしない、顔色を変化させたシンだった。

「…シンくん…」

 エルは直ぐに繕った物の、シンは厳しい顔付きに気付いていた。
 追い詰められた心の中で、自然とカノンの悪い状態が浮かび、勝手に事態を大きくしていく。

 エルは、見るからに不調そうなシンに対して発言を躊躇ったが、一言だけ期待を沿えて残した。

「………多分、このままでは駄目になります」
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