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第十六章・成都

第十六章第十三節(乱闘1)

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                 十三

 暴徒はいったん引き揚げたが、いつまた戻ってくるかわからない。避難するならいまのうちだ--。

 四人は再度公安局巡査へ交渉してみたが、巡査は「この部屋を除き、旅館すべてが群衆に占拠されている。一歩でも外へ出たら命の保障はない」といって、どうしても避難させてくれなかった。
 ついには便所にすら立てなくなり、やむなく目茶苦茶にされた部屋の中でじっとしていなければならなかった。

 真夏の夕陽もすでに遥か西の彼方の稜線へ没しようとしている。空の暖色に群青が混じり、宵闇の勢力が増しつつあった。間もなくあたりはすっかり宵闇に包まれた。
 暗闇とともに不気味さと不安が増す。重苦しい雰囲気に包まれたまま四人はじっと押し黙っていた。

 午後七時半を回った--。
 不吉な予感が的中し、旅館の入り口にまたもや怒号と破壊音が響いた。再び暴徒が押し寄せてきたのだ。しかも今度のは、一層狂暴化していた。
 四人は顔面蒼白となり、思わず立ち上がった。洸三郎は事態の危急を悟った如く、靴の紐を締め直した。そして立ち上がると歯を食いしばり、身構え、決死の形相で破れた扉の方を睨みつけた。

 喧騒と叫びとどよめきが入り交じりながら、二階から三階へと上ってきた。
 三階へ達すると廊下を渡ってきた。予期した流れで暴徒の群れが部屋へなだれ込んできた。
 今度の暴徒には逡巡がなかった。四人を目掛けて無数の拳や棍棒、足蹴りが飛んできた。電灯が割れる音がして、漆黒も部屋になかへ押し寄せた。暗闇の中、誰彼だれかれ構わず殴りつけ、蹴り上げ、髪の毛をつかんで振り回す……。

 最初に倒れたのは深川だった。
 暴徒の一撃を脳天に食らって椅子とテーブルの間に倒れこんだ。それからしばらく、部屋の中は文字通り阿鼻叫喚あびきょうかんちまたとなった。
 暗闇と人ごみの中で、凶暴さと獰猛さがここを先途せんどと踊り狂った。誰のものとも分からない怒号やうめきが行き交い、物が壊れる音が続いた。この世のものであってはならないことが、四人の目の前に現出した。

 乱入者たちは四人を部屋から引っ張り出そうとした。そして四人のうちで最も手前にいた瀬戸へ襲い掛かった。
 引っ張るものと殴りつけるものとが交錯し、揉みくちゃにされながら瀬戸は戸口へと引き出されそうになった。抵抗するその頭上に、暴徒の振り下ろす棍棒が振り下ろされた。鈍い音がして瀬戸の目に光るものが走った。額がわれて深紅の血がだらりと垂れた。
 瀬戸はその場に倒れ込んだ。

 田中は揉みくちゃにされながらも、ちょうど自分の目の前に押し出されてきた巡査の背後にまわり、そのベルトにしがみついて四方からの攻撃をしのいだ。
 深川はうんともすんとも言わずに倒れたままだ。その上に暴徒の鉄拳が容赦なく降り注ぐ。深川の悲痛なうなり声が途絶えたとき、田中は彼の落命を確信した。

 ひとり渡邊洸三郎は、壊れた椅子の足を棍棒代わりに暴徒と格闘していた。多勢に無勢の絶望的な状況にも関わらず、柔道二段の格闘家魂が彼を鬼神のごとく敵に立ち向かわせた。

 すると、やにわに瀬戸が起き上がり、群衆目掛けて突進した。
 意表を突かれた暴徒がひるんだ隙に、棍棒と鉄拳の雨の間隙を縫って血路けつろを求めたのだ。片や暴徒はなおも田中の手足を引っ張り、巡査から引き離そうとした。そして巡査もろとも部屋の外へ押し出した。
 深川は本当に息絶えていたのかもしれない。洸三郎のメガネが吹き飛び、暴徒に踏みつけられた。それでも手にした棍棒を振り回し、必死の抵抗を続けていた。
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