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第十六章・成都

第十六章第十節(発火点)

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                 十

 四人が宿へ入ってほどなくすると、公安局員がやってきた。
 公安局員は再び護照ごしょうの提示を求め、全員の姓名を聞き取ると帰っていった。それからしばらくして、今度は公安局から十人ほどの巡査が派遣され、旅館の警備にあたった。

「なんか物々しいな。これでは却って目立ちそうで不安ですね」
 満鉄職員らしく冷静な声で田中が言った。
 真夏の日差しがジリジリと照りつけ、せみ時雨しぐれが暑さを助長した。土曜の午後の気だるさが街を覆っている。長旅の疲れはあったが、四人はとくに宛てもなく市内を流した。

 護照があっても外国人旅行者には公安局の尾行が付く。杭州こうしゅう辺りでは袖の下さえ渡せば容易に懐柔できるのだそうだが、成都の公安局はとくに厳しいと言われていた。
 取り分け相手が日本人となれば、なおさらのことだろう。まあ、巡査の尾行は身辺警護にもなるので多少小うるさいところを割り切れば苦にならない。
 ただ、食事中も隣のテーブルに陣取って、じっとこちらを凝視しているのには閉口した。

 重慶から二泊三日のバスの長旅という疲れもあったので、その日は簡単な夕食をとって床についた。

 翌二十四日も、街にはとくに変わった様子は見られなかった。
 商売人の瀬戸は朝食を済ますと「商談がある」といって、一人で出かけてしまった。
 残った三人は午前十一時頃、尾行の公安局員を案内役に、有名な杜甫草堂とほそうどう武候祠ぶこうし青羊宮せいようきゅうなど市内見物へでかけた。出がけに旅館の番頭が、昨日中央公園で行われた総領事館反対の集会が今日は小城公園しょうじょうこうえんで開かれると言って日本人の身の安全を気遣ったが、洸三郎ら三人はそれを軽く聞き流した。

 実は成都の小城公園こそは、知る人ぞ知る辛亥革命の発火点である--。
 一九一一年六月、川漢せんかん鉄道国有化に対する反対集会がこの公園で開かれた。集会に集まった群衆が暴動化しエスカレートして武昌蜂起ぶしょうほうきへと発展した。その後、国民革命軍が漢口を武力制圧すると、十月に新政府樹立を宣言して辛亥革命となった。
 だからこの公園には今でも、革命の犠牲者を祀った「辛亥秋保路死事記念碑」という碑が残っている。

 巴蜀への思いが勝った渡邉洸三郎らは、そちら方面への思慮を欠いたまま、前日から楽しみにしていた杜甫草堂や武候祠、青羊宮を訪ねた。古都北京の姿を懐はせるような古雅な市内、名所旧跡を愉快に見物してまわって、午後一時頃、旅館へ戻った。

「折角ここまで来たのだから、楽山大仏とか峨眉山まで足を伸ばしたいものですね」
 自室へ戻って休憩していたら商用で外出していた瀬戸も戻ってきたので、四人は今後の旅程を立てたりしながら、のんびりお気楽なバカ話にふけっていた。

 明日は少し足を伸ばして錦里古街きんりこがいへも行ってみたい。この時も市内に不穏な空気は漂っていなかった。
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