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第十六章・成都
第十六章第二節(総領事館再開)
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二
「行ってもエエんか? ほんまエエんか?」
「行きたいと言ったのはあなたではありませんか。何を今さら……」
「まあ、それはそうやが……、ほんまエエんかいな……」
「誰も反対などしていません。行きたいのなら、どうぞお好きになさればいいではありませんか。」
このところ、夫婦の間にしばしば同じ会話が繰り返される。
大陸文化に造詣の深い祖父や父の影響もあって、洸三郎は子どもの頃から大陸の歴史や文化に親しんできた。それだけに、ひとたび大陸へ渡ったからには是非とも一度、巴蜀の歴史に触れてみたかった。“秘境の地”、四川をこの目で見ておきたかった。
「きっといつかは」--。そう思っているうちに、いつしか三年の歳月が過ぎてしまった。そろそろ帰朝の辞令が出てもおかしくないと思っているところに、朗報が舞い込んだ。満洲事変後の情勢悪化で一時閉鎖していた四川の省都、成都の総領事館が再開されることになったのだ。
成都総領事館は民国七年目の大正八(一九一九)年、時の政府と日本側当局との合意に基づき開設された。英仏独はすでに領事館を持っており、日本は後発だった。
しかし満洲事変が勃発すると、排日の機運は内陸へも広がって現地の治安は著しく悪化した。政府はやむなく在留邦人を引き揚げるとともに総領事館を一時閉鎖することに決した。このときの排外主義は日本のみでなく列国へも向かったため、英仏独各国も同様に成都から撤退することとなった。
その後、塘沽停戦協定が成立して事変は終息。そして廣田外相の親睦外交により両国関係は正常化の軌道に乗った。当然、閉鎖していた総領事館も旧態へ復することになる。実際、成都では先ず、フランスが総領事館を再開した。英独はまだだが、日本も再開へ向けた準備に着手した。
総領事代理の任命を受けたのは、上海大使館情報部に勤務する岩井英一書記生だ。同じ頃、同大使館商務部にいた岩井光次郎書記官とは別人物だが、洸三郎が着任した当初から公私にわたり親交を温めてきた仲である。それだけに、今回の発令を誰よりも喜んだのが洸三郎だ。
「岩井さんが行くならば、是非ボクもお供させてもらえませんか」
「ああ、渡邉さんなら、こちらか頼んででも来てもらいたいくらいですよ」
はじめはほんの口約束のつもりだったが、一たび「行けるかも……」との光明が刺すと、洸三郎の四川への思いは日を追うごとに募っていった。
それに反して南京政府内の権力抗争で“親日派”が一掃されたため、日華の関係はつい一年前とはガラリと様相を変えていた。岩井の成都行きも当初予定から大幅に遅れ、実現の見込みすら危うくなった。
六月下旬、岩井は成都総領事館再開を打ち合わせのため、いったん東京へ戻ることになった。その頃には「総領事館再開は早くとも八月頃になるだろう」との見通しが強くなった。
「その頃には本社へ転勤になっているかもしれないから、残念ですが今回は同行できそうもありません」
そういって、話はいったんお流れとなった。
「行ってもエエんか? ほんまエエんか?」
「行きたいと言ったのはあなたではありませんか。何を今さら……」
「まあ、それはそうやが……、ほんまエエんかいな……」
「誰も反対などしていません。行きたいのなら、どうぞお好きになさればいいではありませんか。」
このところ、夫婦の間にしばしば同じ会話が繰り返される。
大陸文化に造詣の深い祖父や父の影響もあって、洸三郎は子どもの頃から大陸の歴史や文化に親しんできた。それだけに、ひとたび大陸へ渡ったからには是非とも一度、巴蜀の歴史に触れてみたかった。“秘境の地”、四川をこの目で見ておきたかった。
「きっといつかは」--。そう思っているうちに、いつしか三年の歳月が過ぎてしまった。そろそろ帰朝の辞令が出てもおかしくないと思っているところに、朗報が舞い込んだ。満洲事変後の情勢悪化で一時閉鎖していた四川の省都、成都の総領事館が再開されることになったのだ。
成都総領事館は民国七年目の大正八(一九一九)年、時の政府と日本側当局との合意に基づき開設された。英仏独はすでに領事館を持っており、日本は後発だった。
しかし満洲事変が勃発すると、排日の機運は内陸へも広がって現地の治安は著しく悪化した。政府はやむなく在留邦人を引き揚げるとともに総領事館を一時閉鎖することに決した。このときの排外主義は日本のみでなく列国へも向かったため、英仏独各国も同様に成都から撤退することとなった。
その後、塘沽停戦協定が成立して事変は終息。そして廣田外相の親睦外交により両国関係は正常化の軌道に乗った。当然、閉鎖していた総領事館も旧態へ復することになる。実際、成都では先ず、フランスが総領事館を再開した。英独はまだだが、日本も再開へ向けた準備に着手した。
総領事代理の任命を受けたのは、上海大使館情報部に勤務する岩井英一書記生だ。同じ頃、同大使館商務部にいた岩井光次郎書記官とは別人物だが、洸三郎が着任した当初から公私にわたり親交を温めてきた仲である。それだけに、今回の発令を誰よりも喜んだのが洸三郎だ。
「岩井さんが行くならば、是非ボクもお供させてもらえませんか」
「ああ、渡邉さんなら、こちらか頼んででも来てもらいたいくらいですよ」
はじめはほんの口約束のつもりだったが、一たび「行けるかも……」との光明が刺すと、洸三郎の四川への思いは日を追うごとに募っていった。
それに反して南京政府内の権力抗争で“親日派”が一掃されたため、日華の関係はつい一年前とはガラリと様相を変えていた。岩井の成都行きも当初予定から大幅に遅れ、実現の見込みすら危うくなった。
六月下旬、岩井は成都総領事館再開を打ち合わせのため、いったん東京へ戻ることになった。その頃には「総領事館再開は早くとも八月頃になるだろう」との見通しが強くなった。
「その頃には本社へ転勤になっているかもしれないから、残念ですが今回は同行できそうもありません」
そういって、話はいったんお流れとなった。
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