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第十六章・成都

第十六章第一節(めおと)

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             風紋(Wind Ripple)

               第十六章

                一

 渡邉洸三郎は母親の影響でキリスト教に入信している。
 上海に暮らすアメリカ人の三分の一はキリスト教の宣教師で、漢人にもキリスト教徒が多い。
 彼もここへ来てすぐに教会の門をくぐった。どんな人にも好かれる質だったから、牧師に気に入られるのにも時間はかからなかった。そんな縁で一人の女性を紹介された。
 女性の名は山本恒子やまもとつねこといった。

 人並み外れたいびきを気に病む洸三郎は、丁重に縁談を断ろうとしたが、周囲が是非ともと話を勧めた。恒子も鼾など少しも気にしないと言い切った。何度も何度も念を押したが、フィアンセは気にしないと言い張った。そうして二人は夫婦めおとになった。

 実家の母は二人の結婚を喜ばなかった。早くに夫を亡くし、半ば女手ひとつで育てた息子が、手の届かない外地で自分の知らないうちに縁談を進めている。当時の一般的な家庭ならばどこの家であったとしても、すんなり受け入れられる話ではない。
 それでも二人は押し切るように上海で式を挙げた。そんな事情だったから、実家からは誰も来なかった。代わりに天津にいた姉夫婦だけが列席した。

 初めて床を並べた新婚の二人に何が起こったかは定かでない。翌朝、何事もなかったかのように朝を迎えた恒子を、洸三郎は不思議に思った。「寝れたか?」と聞くと、「何故?」という顔で、「ええ」と返してきた。翌日も恒子はすがすがしい顔で朝を迎えた。
 洸三郎はそれでも新妻に申し訳なく思い、せめて妻が寝入るまで起きていようと心に決めるのだが、いつも自分が先に落ちていた。夫婦の床を分けようかと聞いてもみたが、恒子は「何故そんなことをするのか」と悲しげな顔をした。
 しまいには、「アナタのイビキがないと寝付けない」とまで言ってくれた。洸三郎は生まれて初めて、自分の鼾を好意的に受け入れてくれるヒトに巡り合った。有頂天になって友人へ手紙を書いた。
 
 夫婦はすぐに子宝に恵まれた。男の子だったのではじめと名付けた。シャレではないが、「三郎」が「はじめ」を生んだ訳だ。二人目には「次郎」を付けようとしたが、女の子だった。聖母の名を借りて茉莉子まりこと名付けた。
 
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