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第十五章リース=ロスの幣制改革

第十五章第四十一節(前途)

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                四十一

「現在、この国で唯一機能している公共機関は、税関のみと言って過言ではないでしょう」
 有吉はあたかもリース=ロスの心中を見透かしたかのように、自分の発言が決して“民族差別”によるものではないと弁明するかのように、“自説”を続けた。

「もし今後、財政支援を目的とした国際援助を行うならば、貴職がおっしゃるように外国による監視なり管理が不可欠になるという点は、本職も同感です。ただし、それは極めて政治的課題と同義になるため、容易には行い難い」
 第一次大戦の戦後賠償を協議した「ローザンヌ会議」は、ドイツが戦時賠償金の支払い停止を求め暗礁に乗り上げた。英国代表の一人として会議に臨んだ経験を持つ彼は、困難は百も承知だが粘り強く話し合えばどこかに妥協点を見いだせる--との意気込みで仕事を引き受けた。
 だが……。

(どうもこの仕事は思っていたより困難なのかもしれない)
 ヨーロッパにおける“困難”を乗り越えたのだから、東洋の“困難”などいとも簡単に解決できるはずだ--。
 リース=ロスは次第に仕事を引き受けたことを後悔し始めた。

「さらに加えて、貴職が考案された、強力な『ガバメント・バンク』の設立についてですが……」
 次第に“自信”が揺らぎ始めたリース=ロスに覆いかぶさるように、有吉はなおも続けた。
「この国では政府に対する信用が著しく低い。そのようなバンクを設立したとて、預けた資金は何らかのかたちで政治に流用されるに違いないという不信感が強い。民衆は政府系銀行よりも、むしろ堅実な民間銀行を信用する嫌いがあります」

 政府の腐敗は何も中華民国の専売特許ではない。大英帝国にはインドやエジプトなどにおいて成功裏に通貨制度改革を実施した実績がある。リース=ロスが一矢報いる番が回ってきたと思い、こう言った。
「その点ならば、政府が中央銀行の資金に勝手に手を付けられない仕組みを作ることもできます」

 さらに余勢を駆ったリース=ロスは、“揚げ足”を取ってやる気になった。
「先だって河北の秦皇島しんこうとうにおいて、密輸を取り締まり中の民国税関の船が日本軍の手で武装解除される事案があったと聞いています。このような行為は、税収確保の観点から望ましくない」--。
「その件は塘沽タンクー協定の規定に基づくものです。決して日本の官憲が密輸を奨励するものではありません」
 リース=ロスが仕掛けてきた透かし技だが、有吉は事もなげに払ってこういった。
「密輸の取り締まりには、我々もできる限りの協力をしているつもりです。ただ、本当に密輸を止めたければ関税を引き下げるのが最も有効ですがね……。それに、密輸の取り締まりならばむしろ南西方面、特に広東政府が公然と見過ごしている密輸を取り締まるのが先決かと思いますよ」

 会談の帰路、リース=ロスはカドガンに「前途は暗い」とつぶやいた。
「日本人はあれやこれやと注文をつけて、この件から英国を遠ざけようとしているだけだ」
 ついこの間まで華人よりさらに劣等な民族としか思われていなかった日本人が、こうもデカい面をして上海で大手を振るうのに日頃から面白くない思いを持っていたカドガンは、暗に「日本抜きやろうや……」と水を向けた。

 外務省の出先の責任者がその意向ならばなおさら、「日英が協調して事に当たる」という観念は薄れていった。
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