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第十五章リース=ロスの幣制改革
第十五章第二十八節(第一次張北事件)
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二十八
廣田外相の「日華親善外交」を民国側で主導してきたのが、汪兆銘行政委員長と外交部の唐有壬次長だ。両国の関係改善は在華公使の大使昇格というかたちに表れたが、これによって肝心の“排日行為”が止んだかといえば--そう簡単な話には収まらなかった。
前年十月のことだが、支那駐屯軍参謀の川口清健中佐ら八人が内モンゴルのチャハル地方を視察し張家口の北方約三十五キロにある張北という部落に差し掛かった際、部落の南門から宋哲元の第百三十二師衛兵と保安隊が現れ、自動小銃や青龍刀を振り回して一行の通行を妨害した。
一行の中には領事館員も居て、民国内地を旅行する場合に義務付けられる「護照」というパスポートも所持していた。門前で押し問答を繰り返したが一向に埒が明かないので、とうとう領事館書記官が単身公安局へ掛け合いに行くと言って前へ出たところ、衛兵司令官がこれを殴打し部下の兵士らが一斉に銃口を向けた。
あわや一触即発というところへ、おっとり刀で先方の将校がやって来たのでようやく話が通じて一行は視察旅行を継続できた。
この件はそれ以上発展しなかったが、「護照」を保持した外国人への通行妨害や外交官への暴力を黙って見過ごす訳にはいかないからと、軍部と外務省の双方から厳重抗議の上で謝罪を求めた。
これを「第一次張北事件」と呼ぶ。
これ自体は「廣田外交」以前の話でもあり、従来からの“排日行為”の一環に過ぎない。ただ、この後に続く出来ごとの伏線となるのいで、頭の片隅に置いておいていただきたい。
この年八月の廬山会談を起点に南京政府は対日外交方針を転換し、翌年の“廣田外交”へと進化する。ところがそうした間も華北方面には相変わらず匪賊が出没し、搪沽協定で合意した停戦ラインの侵犯が常態化していた。
とくにチャハル省首席を兼ねる宋哲元は配下の第二十九軍をしばしば越境させて熱河省内の諸都市を占拠するなど“実効支配”の策動を進めてきたため、昭和十(三五)年一月、関東軍はついに武力をもってこれら部隊を排除し、長城線上の要所を確保した。
この一連の動きを「第一次熱西侵犯事件」と呼び、第一次張北事件と併せ「日華親善」に対する軍部側の不信感の根拠となる。
廣田外相の「日華親善外交」を民国側で主導してきたのが、汪兆銘行政委員長と外交部の唐有壬次長だ。両国の関係改善は在華公使の大使昇格というかたちに表れたが、これによって肝心の“排日行為”が止んだかといえば--そう簡単な話には収まらなかった。
前年十月のことだが、支那駐屯軍参謀の川口清健中佐ら八人が内モンゴルのチャハル地方を視察し張家口の北方約三十五キロにある張北という部落に差し掛かった際、部落の南門から宋哲元の第百三十二師衛兵と保安隊が現れ、自動小銃や青龍刀を振り回して一行の通行を妨害した。
一行の中には領事館員も居て、民国内地を旅行する場合に義務付けられる「護照」というパスポートも所持していた。門前で押し問答を繰り返したが一向に埒が明かないので、とうとう領事館書記官が単身公安局へ掛け合いに行くと言って前へ出たところ、衛兵司令官がこれを殴打し部下の兵士らが一斉に銃口を向けた。
あわや一触即発というところへ、おっとり刀で先方の将校がやって来たのでようやく話が通じて一行は視察旅行を継続できた。
この件はそれ以上発展しなかったが、「護照」を保持した外国人への通行妨害や外交官への暴力を黙って見過ごす訳にはいかないからと、軍部と外務省の双方から厳重抗議の上で謝罪を求めた。
これを「第一次張北事件」と呼ぶ。
これ自体は「廣田外交」以前の話でもあり、従来からの“排日行為”の一環に過ぎない。ただ、この後に続く出来ごとの伏線となるのいで、頭の片隅に置いておいていただきたい。
この年八月の廬山会談を起点に南京政府は対日外交方針を転換し、翌年の“廣田外交”へと進化する。ところがそうした間も華北方面には相変わらず匪賊が出没し、搪沽協定で合意した停戦ラインの侵犯が常態化していた。
とくにチャハル省首席を兼ねる宋哲元は配下の第二十九軍をしばしば越境させて熱河省内の諸都市を占拠するなど“実効支配”の策動を進めてきたため、昭和十(三五)年一月、関東軍はついに武力をもってこれら部隊を排除し、長城線上の要所を確保した。
この一連の動きを「第一次熱西侵犯事件」と呼び、第一次張北事件と併せ「日華親善」に対する軍部側の不信感の根拠となる。
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