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第十五章リース=ロスの幣制改革

第十五章第二十節(近隣窮乏化)

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                 二十

 廣田弘毅ひろたこうき外相の日華親善外交が最も目に見えるかたちで現れるのは、他国に先駆け「在華日本公使館」から「大使館」へ昇格させたことだ。

 在華公使を最初に大使へ昇格させたのは前年九月二十六日のイタリアで、その直後にソ連邦が追随した。このときは特に反響はなく、列国はただ冷然とこれを眺めていた。
 ところが昭和十(一九三五)年五月八日に日本政府が南京政府へ大使館昇格を通知し、関係国にも内話すると、英米仏の公使館はハチの巣をつついた騒ぎとなる。

 国際聯盟を脱退し、“世界の孤児”となったはずの日本なんぞに出し抜かれたのでは列強の沽券こけんにかかわるとばかり、慌てて本国政府の了承を取り付け日本と同じ五月十七日に大使昇格を公表した。ドイツは一日遅れの十八日公表となる。ことに英国などは、せめて新大使の信任状捧呈式しんにんじょうほうていしきだけでも日本に後れを取るまいと駆け足でこと進めた。

 塘沽タンクー協定によって満洲事変に決着がつき、さらに日華両国の関係が改善したのだから、極東の情勢は極めて安定した。世界にとっても万々歳なはずである。
 それなのに各国は過敏なほどに他国を“横にらみ”しつつ、「決して出し抜かれまい」と互いに神経を尖らし合った。これは何も極東に限ったことではなく、米州や欧州など世界中のどの国も同じように互いをけん制し合った。

何でそんなことになってしまったのだろうか--?

 答えは簡単。世界の経済状況が事変当時よりも著しく悪化したからである。
 経済のグローバル化は決して二十世紀後半にはじまった現象ではない。十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて、すでに今日とは比較にならないほど市場メカニズムに依拠した“放任主義(laisse-faire)”の自由貿易が世界中を覆っていた。ただ当時は地球上の大半の土地が“植民地”だったから“貿易相手” は宗主国になり、グッと少なく見えたというのが真相だ。

 自由貿易を通じたグローバル経済の拡大は、各国をつないで文化やヒト・モノ・カネの流れを盛んにした。この流れが“巡目”にあるときは、貿易が拡大して世界経済全体のパイも大きくなっていく。
 ところがひとたび歯車が逆回転をはじめると、今度は各国が“自己中”になってパイの奪い合いをし始めるから、自国の利益を優先して通貨を切り下げたり他国を排除するために関税障壁を設けたりと、負の競争に勤しむようになる。
 この状態を「近隣窮乏化」という。

 不幸にして「廣田外交」は世界大恐慌がいよいよ深刻化して、世界中が近隣窮乏化政策、なかんずく「ブロック経済」へと向かっていくなかで実現した。同様に英国が持ち掛けた「共同借款」の誘いも、せっかくの“善意”が字義どおりに受け止められずに“疑心暗鬼”の波間に揺れた。
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