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第十五章リース=ロスの幣制改革

第十五章第十四節(吊り上げ)

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                十四

 世界がようやく「恐慌」の最悪期を脱して回復の軌道を踏み固めようとしているのとは裏腹に、中華民国経済は今からその“地獄”へ向かおうとしている--。

 これもまた本章第四節に触れたように、財政難に陥った南京政府は香港上海銀行へ二千万ポンドの融資を申し入れたが安易な借款は却って民国自身の首を絞めることになるとの理由から、結局断られた。
 このことを念頭に、三菱銀行上海支店長の吉田政治よしだせいじは「民国政府は他力本願に走らず、先ずは自力更生の道を歩むべき」--と自助努力の必要を喚起した。

 田知花の期待通り、吉田は座談会を終始リードして、その発言はどの参加者よりも異彩を放った。
 約三時間に及んだ議論は経済面に五回シリーズで掲載され、大きな反響を呼んだ。なかでも連載三回目に吉田が発した次の言葉は、上海金融界のみならず内地財界の度肝どぎもを抜いた。

 「米国の銀政策は一九三三年の世界経済会議におけるロンドン・パクト(銀協定)に違反している。この違反は、米国あたりが日本の九カ国条約違反を責める資格を無くするものだ」

 米国の銀政策が極東の金融経済に悪影響を及ぼしている--との認識は、多くの経済人に共有されていたが、これを九カ国条約に結び付けて語ったのはこれが初めてとなる。
 そこで大毎は三月下旬、再び吉田へ単独インタビューを行って、この問題を掘り下げた。
 
 吉田の主張は、「協定の精神はあくまで銀価の下落防止と安定にあり、銀価吊り上げの意味は断じてなかった」というものだ。

 「ロンドン八カ国銀協定」の最大の眼目は銀の売却に一定の制限を加え、市場価格の崩落を阻止するという点にある。
 今からでは想像もつかないが、当時、世界最大の銀本位国だったインドが金本位制へ移行したのが一九二七年頃のことで、世界的にはまだ通貨の移行期にあった。もしこれらの廃貨銀が一気に市場へ流れれば、銀相場は暴落を免れない。それでは現行の銀本位国である中華民国や、メキシコ、カナダ、アメリカ合衆国のような銀産国が痛手を被る--というのが建前にあった。
 だが吉田は、米国の本音は銀価の“吊り上げ”にあると看破していた。

 「協定の第五条は、向こう四年間に年間約二千四百四十万オンスの買い入れを許可したものだが、米国はすでに昨年の半年で約三億オンスを買い入れ、将来さらに十億オンスを買い入れようとしている」

 自国の特定産業者を優遇するために取られたこの政策が、極東の経済、ひいては全般的な情勢を不安定にしている。「これは単なる内政の問題ではなく、実に東洋の大問題なのだ」というのが、彼の米国批判の論拠だった。
 であるから、市場価格の“吊り上げ”をともなわずに米国が自国の政策を実行できるよう、「英国などがインドに保有する銀を米国政府に直接譲渡するとともに、世界の銀市場からの買い入れ策を止めるよう働きかけるべきだ」と提起した。

 これ等の発言が上海経済界や南京政府内に伝わって、吉田の評判はますます高まった。宋子文は折に触れ、吉田の助言を求めるようになった。
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