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第十四章上海事変

第十四章第三十六節(勝利主義)

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                三十六

 上海の戦雲が重苦しく立ち込めるなか、ワシントンではやや毛色の異なる論戦が闘わされた。

 上海事変を受けて南京政府は国際聯盟へ臨時理事会の招集を提訴した。それとともにジュネーブ方面に再び対日経済制裁がささやかれはじめる。
 すると今度は米国内へも飛び火して、ボストンの婦人団体が日本製品のボイコットを提唱した。
 この動きに対して上院のウィリアム・ボラー外交委員長は、「そのような行為は日米の外交関係を悪化させ、ひいては日米間に戦争を惹き起こす結果を招く」と警告。「『平和主義者』の誠意を疑うものではないが、その種の発想を抱けば合衆国は地域紛争を起こした世界中の国を相手に“ボイコット”を起こさねばならなくなる」とけん制した。

 それでもハーバード大学のローレンス・ローウェル学長は二月十八日、NBCラジオの放送を通じて「満洲で起こったこと、ましていま上海で起こっている出来ごとを目の当たりにし、ただ他国政府や中立国の輿論が抵抗するだけでは、国家の目的を武力で実現しようとする勢力を止めることはできない」と実力行使の必要を唱えた。

 ボラー委員長は重ねて「平和論者たちは経済制裁が他国を平和裏に屈服させる方法だと信じているが、それは逆だ。経済制裁は武力を用いない戦争行為そのものであり、危険極まりない」と警告した.

 生真面目な善人や平和主義者ほど危険な思想に走りやすい。何故なら彼らほど近視眼的な“独善”に陥りやすいからだ。
 逆説的だが平和を愛する心が崇高で気高く完璧であればあるほど、これに“非ざる者”は即ち“悪”となる。そんな不埒な連中など存在する意義も価値もないから、排除しても差し支えない--。

 かくて“人類愛”を高唱する者ほど敵対する勢力に対しては容赦がないし、敬虔な信者ほど“異端者”へは残忍に振舞う。かつて宗教戦争においては、教義の名の下に何らの躊躇もなく虐殺が行われた。これを称して「勝利主義(Triumphalism)」と言う。
 ボラー委員長の警告はこの逆説に注意を喚起したものと見て良かろう。

 それでも民主党議員で元陸軍長官のニュートン・ベイカー氏やローウェル学長らに代表される「平和主義者」は十九日、フーバー大統領へ請願書を送る。
 さらに彼らは放送を通じて全国へ署名を呼びかけると、同月二十五日時点で約五千人、最終的には約一万人がこれに賛同した。

 署名にはプリンストン大学の現役教授陣が名を連ねたが、かつて同大学で政治学の教鞭を取った歴史学者で国際問題の権威と知られたハーバート・アダムス・ギボン博士は、彼らを「ヒステリー患者だ」と罵った。
 長きにわたって東洋に滞在し、このほど帰国したばかりのギボン博士は、その理由をこう述べた。

 「今日のように世界経済及び金融が国際間の相互依存で成り立っている時代において、経済制裁を加えるということは宣戦布告するのと同じことだ。日本に対してそのような手段を用いようとする者は、彼らが目的を達したときに世界の平和が深刻な挫折に見舞われるという結果を招くことが判らない連中である」
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