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第十四章上海事変

第十四章第二十六節(心の傷)

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                二十六

 月が変わって二月一日になると、三面の大見出しに「上海での市民虐殺は華人に刻まれた心の傷をさらに深くした」との文言が綴られる。

 アーベント記者は一九二五年の五月に起こった「五・三〇事件」を引き合いにこう書いた。

 「過去数日にわたって行われたホロコーストに比べれば、約七年前の五月の事件における死者や負傷者の数は『ほんの一握り』に過ぎなかったと言い得よう。一九三二年一月の数日間が華人大衆の記憶から薄れ去るには、それより遥かに長い歳月を要するだろう」

 思えばこの国は災難続きだった。
 前年の夏には揚子江中流域が「有史以来最大規模」と言われる大水害に見舞われ、漢口かんこうでは約二百八十五万人が被災して約十四万五千人が死亡した。
 当時の報道によれば実際の被災者はさらに多く、約五千万人を数えたとされる。水害そのものの被害だけでなく、夏場で疫病えきびょうが蔓延したことによる死亡者数は約三百七十万から約四百万人を数えた。
 この「漢口水害」から半年を経た上海事変の渦中にあっても、依然約一千万人が家を追われ、かろうじて慈善団体に支えられ命を長らえるという惨状にあった。

 この災害によって世界中の同情はこの国へ集まった。そこへ満洲事変が起こった。だから多くの華人は日本の軍事行動を「火事場泥棒」と見て憤った。
 だが実際は、日本も“人道的支援”では人後に落ちなかった。すぐさま現地へ救援物資を送ったのだが、こともあろうに南京政府がこれを“突っ返して”きたのだ。
 この非礼には当然のことながら、日本中が怒りの声を上げた。

 南京政府の“不統一”には一家言あるアーベント記者も、一般の華人へ向けた慈愛の目では人後に落ちなかった。そしてこう続ける。

 「ことの正否や日華両軍を駆り立てた軍事上の必要性はともかくとして、明らかな事実は過去数日の間に数知れない市民が日本海軍の手により虐殺されたことである。このことは華人の心に深い傷を残し、それが癒えるまでには向こう十年はかかるだろう」
 
 「昨秋のはじめに起こった満洲に対する日本の急襲によって、無数の華人の生命が失われた。そして少なくとも戦前のドイツとオーストリアを合わせたより多くの国土が失われた。
 これらを通して華人の怒りは最高潮へと達したと思われたのだが、直近一週間にわたる一層危機的な状況がドラマチックに展開するのを、我々は目の当たりにした」
 
 すでにお気づきだろうが、ここまでの彼の記事には第十九路軍の姿が全くと言って良いほど出てこない。“姿”の見えない相手、あるいはせいぜい“スナイパー”を相手に、日本軍はあたかも“気が触れたように”銃を乱射し続け、航空機は爆弾を落とし、大口径の野砲がさく裂し軍艦の砲口が唸る--。
 そしてひとしきり戦禍を逃れる“哀れな華人市民”の姿を描き、租界の窮状を訴え、極めつけに「平服姿の華人の死体が横たわっていた」という話につながる。

 日本軍は租界の“防衛線”上で闘っているから記者の目に触れやすい。これに反して第十九路軍は、租界の外側から攻めてくるから姿が見えない--。

 そんな単純なことを、どうして誰も指摘しないのだろうか--?
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