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第十四章上海事変

第十四章第十二節(戒厳令)

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                 十二

 もはや戦争は時間の問題だった。
 呉市長が日本側の要求を受け入れたとは言え、物情騒然たる状況を改善させるにはすでに遅かった。村井総領事が呉市長の公文を受け取ってから一時間後の午後四時、工部局は上海市内に戒厳令を布告する。
 ちなみにこの時発せられたのは「Statement of Emergency(非常事態宣言)」であって「Martial Law(戒厳令)」ではないという議論がある。そのどちらにしても各国駐留軍は共同防衛体制を発動し、それぞれの担任区域へ就いたのだ。
 
 少し古いデータだが、第一次世界大戦から一九二〇年頃まで、上海の列強最大勢力はイギリス人の約五千五百人だった。これを守る英駐留軍は二千三百六十人。続いて米軍が千二百五十人、フランス軍は安南(ベトナム)兵を中心に千五十人を駐留させた。
 上海に暮らすアメリカ人は宣教師が七割を占め、その数も三百人強に過ぎなかった。つまり居留民より遥かに上回る駐留軍がいた勘定になる。

 一方の邦人居留民数は一九一四年に初めて一万人を超え、それから毎年右肩上がりで増えていき、昭和六年度調査で二万四千二百三十五人、翌七年度調査では二万六千七百二十四人を数えた。
 これを守る日本海軍陸戦隊は、昭和六年九月十八日時点でわずか六百七十二人に過ぎなかった。その兵力はあまりに過少だ。だから、事あるごとに日本は駐留兵数を増やそうと試みる。
 事実、揚子江流域の排日問題が閣議に取り上げられた十月五日、佐世保から二百三十六人が増派され、三友実業や青年同志会の事件を受けた翌年一月二十一日には呉の四百五十七人が追加された。
 その二日後には巡洋艦大井や駆逐艦隊から約四百五十人が上陸し、さらに三日後の二十六日にも佐世保の四百六十七人が来援した。

 こうして一月二十八日時点で兵力は計千八百三十三人まで増加した。これを三個大隊に編成し、装甲車九台、八〇ミリ野砲四門、五〇ミリ野砲四門、曲射砲四門、機関銃十一丁の戦力を整えた。その後も戦況が苦しくなるにつれて戦力を逐次投入してくる。
 『昭和六、七年事変海軍戦史』によると、日本軍の警備担当区域は

     「東=虹口クリーク、欧陽路
     西=淞滬鉄路(北停車場~新公園踏切北方)
     南=北蘇州路
     北=新公園北端射的場」

 となっている。おおむね共同租界の蘇州河そしゅうが以東とその北側に連なる越界路えっかいろ沿いの地域となる。
 
 午後十一時、陸戦隊本部を出動した鈴木光信すずきみつのぶ少佐率いる第一大隊が宝興路ほうこうろを経て鉄道沿線へ出ようとしたところ、通りの西側から射撃を受けてこれに応戦。

 ついに日華両正規軍の間に武力衝突が起こった。
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