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第二部第十三章スチムソンドクトリン

第十三章第四十四節(刺激外交)

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                四十四

 スチムソン氏が間の抜けた「ブライアンの覚書」の例を引いて日本の満州政策に「不承認」を唱えたのを、こうした二つの主権国家間に横たわる緊張関係抜きには語れない。まして南米諸国へ向けた「不承認」と混同するなど勘違いもはなはだしい。

 案の定、「スチムソン・ドクトリン」は新たな「日米開戦論」を呼び起こした。前出の清澤洌きよさわきよし氏が『アメリカは日本と戦わず』を著したのも、そうした“ムード”に乗ってのことだった。
 彼は著書のなかで「日本とアメリカが戦争することにより解決する問題は一つもない。いずれが勝つにしても、これらの問題は依然残るのである」と、過熱した輿論をいさめる。ただしそんな彼とて、合衆国の“身勝手”なもの言いに苦言を呈さずには置かなかった。
 
 「もし米国が真に世界の平和を想い、支那の安念を念じ、これがために日本の進出を押えんとするならば、米国はいささか自らを犠牲にすることによって世界の平和を持ち来たすことができるのである」
  
 この本を通じて清澤は日米の構造的な課題を洗い出したが、スチムソン氏の評価は終始低かった。

 「スチムソン氏の手紙外交のごときは、はなはだ拙なる刺激外交である」

 結論から言えば、日本の輿論をちょっと刺激した以外に何ももたらさなかった。ローマの吉田茂大使にいたってはこんなことまで言って寄越した。
 
 「米国のスチムソンは極東問題に関してキャスル(次官補)ほどの知識なく、キャスルの知識に値するほどの度量もなし。すでに我が国に対してある種の“感情”を抱くにいたった以上、直接彼を動かすのはもはや困難であるから、英国の助言に期待するしかないだろう」

 それでも日本政府はスチムソン国務長官の「覚書」に律儀に答えた。それが帰国した吉澤謙吉よしざわけんきち外相にとっての実質的な初仕事となった。
 芳澤外相は一月十六日の午前十一時、キャメロン・フォーブス駐日大使を招請して「覚書」へこんな回答を手交した。
 
 「民国に関する条約の適用については、常に変化する同国の国情をよく考慮する必要がある。ことに現下のような内政の不安定さは、ワシントン会議に列席した当事国としてまったく予想していなかったものである」

 ワシントン会議が開かれたのは辛亥革命からちょうど十年目に当たる。当時は「三民主義」を掲げて近代化へ突き進む、新生国家の未来に世界中が期待を寄せた。
 だが、それから十年が経とうとしているにもかかわらず、未だ中華民国には統一政府がない。
 吉澤が言いたかったのは、「条約に基づきひとつの政策を十年間やってみたが、一向にその成果が上がらないのだから、ここで一度やり方を見なおしてはどうか」ということだった。

 彼の言うことは確かに正論だが、紛争の当事国が条約の見直しを口にするにしてはタイミングが悪すぎる。
 案の定、吉澤の回答に対するアメリカ国務省の受けは悪かった。そして非公式ながら即座に不満の意を漏らす。

この点を巡る両国の対立は上海事変の終盤まで尾を引き、後に詳述する「ボラー委員長への手紙」として顕在化する。
 
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