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第十二章錦州

第十二章第二十二節(邪推)

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                二十二

 保安隊は「便衣隊の掃討」を名目に発砲した。
 しかし前回の事件処理に際し、日華双方は「便衣隊の掃討は日本側へ事前連絡の上で実施する」と取り決めたはずである。保安隊がこれを無視しただけに最初からバツの悪かった王樹常おうじゅじょう主席側だが、天津軍が突き付けた五項目要求の第三項にある「保安隊のさらなる後退」と、第四項「華北省内にある部隊の移動中止」を巡って協議は難航した。

 要求は北平の張学良へと転電され、折り返し王主席へ次のように訓令した。

 「もし第三項を実施すれば、天津の大部分が保安隊不在の空白状態となってしまい、治安維持上の不安を惹起する。また第四項は天津事件と関係がない」

 回答期限を遅れて二十七日午後四時、王主席の回答が届いた。
 第一、第二と第五項は原則論なので問題ないが、第三項は学良訓令の通り、第四項は「省政府の管轄外」と木で鼻をくくった内容だったため、香椎司令官は「誠意がない」と非難声明で応じた。
 このため前線の対立はさらにエスカレートし、小銃、機関銃、迫撃砲弾が飛び交った。この間、欧米諸国の領事団が「緩衝地帯」の設置を持ち掛けたが、彼らとて本国の了解を取り付けた上での話ではなかったため、結局この案は空中分解してしまった。

 両者の交戦はさらに二日続いたが、結局天津市側が折れて保安隊の“自発的撤退”を開始したため、漸次事態は終息へと向かった。

 そうなると関東軍が南下する理由も失われた。金谷総長はすかさず本庄司令官へ、部隊撤収を厳命する。
 そればかりではない。先回りした総長は、林銑十郎はやしせんじゅうろう朝鮮軍司令官へも「独断専行はまかりならん」と厳しくクギを刺したため、今度ばかりは手も足も出ないと悟った本庄司令官は同日午後八時、出動した部隊を順次帰還させた。
 かくて錦州危機は取り敢えず回避された。

 嵐は去ったが参謀本部と関東軍の間にはくっきりと爪痕つめあとが残った。東京と奉天の立場の違いが認識に齟齬そごを生み、ついには感情的対立へと発展していった。が発した電報である。今や関東軍擁護ようごの立場へと変わった二宮次長は中央の認識を正すべく、東京の建川部長へ宛て次のように返した。

 「以前、関東軍は中央部からの派遣者(=白川義則大将)と熟議した上で、関内かんないにおいて日華両軍が本格的に衝突した場合には錦州きんしゅうを経て山海関さんかいかん方面に出るという行動が、必ずしも中央部の意図に反するものではないと諒解りょうかいしている。今般、急遽遼西りょうせい方面へ出動するに際して、事前に中央の承認を得なかった点は問題があるものの、中央の意図に従うというを疑う余地はない。まして『』などと邪推じゃすいするのは誤解もはなはだしい。この点は将来のこともあるので、十分冷静にご考慮いただきたい」
(傍点筆者)
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