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第十二章錦州
第十二章第二十四節(余波)
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二十四
前章でもフォローした通り、長官の発言そのものは“穏当”なものだったが、事態を招いたAP通信ワシントン支局は当初、「国務卿の声明なるものは、米国内はもちろん米国外にも当社の手によって伝えられた事実はない」と白を切った。
しかし騒ぎが海を越え、ワシントン筋もこの話で持ちきりとなった。ついに追及の手を逃れられないと悟ったバイロン・ブライス支局長は、「声明書については(中略)これをスチムソン氏の責任に帰するものではない」と婉曲に自社の過ちを認めた。
なお、二十九日付の大毎第二号外によれば、問題の記事はアメリカ国内の新聞には掲載されておらず、「わざわざ輸出向きの電報に書き換えたとの疑いもある」という。何とも奇妙な記事であったが、「長官の声明」なるものが誤報--と呼ぶにはあまりに事実とかけ離れた“ねつ造” --と確認した外務省は二十九日、「これ以上本件に関して米国政府を追窮することを停止し、一切を水に流す」と声明した。
「スチムソン失言問題」そのものは、これにて一件落着した。
ところが声明の内容から幣原外相が軍の機密を外国の大使へ漏らしたとの疑いが浮上した。さらには金谷総長も統帥事項を外部へ漏らしたとして、舌鋒鋭く非難を浴びた。
先を急ぎたいのでこの辺の国内事情はひとまず置くとして、この件が民国の輿論へ及ぼした影響は見過ごせない。
北満のときも同じだが、当然の如く錦州へ攻め上ってくると思っていた関東軍が、突如反転したのを気味悪がった華人社会に、「日本軍の錦州攻撃中止は米国務長官の抗議に基づくものだ。今や日本は米国の干渉によってついに屈服するに至った」との流言が広まった。そしていったんは内政問題へと向かった華人輿論の矛先は、再び対日強硬論となって燃え盛りはじめる。
アメリカに頭の上がらない日本--。
「中立地帯」案が持ち上がったのを受けて、国際輿論へ配慮しいったん兵を退いた日本軍と、スチムソン長官の発言を巡る報道--。たまたま重なった二つの出来ごとが組み合わさってひとつのイメージを形成してしまった。
日本の輿論はこれに猛反発して、幣原外相や金谷参謀総長の責任を問う声へと転じたが、もっと厄介だったのが民国側の輿論だった。出来上がったイメージに力を得た華人輿論が高揚するにつれて蔣介石や張学良はさらに「退くに引けなく」なって、一層態度を硬化させざるを得なくなる。するとその態度が作用して、遼西方面の義勇軍や別動隊の活動も益々|活発化する。
風が吹けば桶屋が儲かる式の連鎖が起こると、まるでパブロフの犬のように新政権の華人要人たちも浮足立った。毎度おなじみの展開だが、この度も少なからぬ要人が「米国の恫喝を前に日本は断固たる態度を成し得ない」との不信感を募らせ、関東軍や在満邦人をヒヤヒヤさせた。
気づいてみれば、遼西方面にもチチハル侵攻前と同じ環境が出来あがってしまったのである。
では実際のところ、関東軍はこの時の情勢をどう判断していたのだろうか?
後年少将に昇進した片倉衷は、このときの情勢判断についてこう振り返っている。
「(張)学良は表面的に強硬姿勢を装っているが、その内実は直系軍の結束すら図れない状態にある。図らずも今回の天津事件に際してその弱点が露見してしまった」
前章でもフォローした通り、長官の発言そのものは“穏当”なものだったが、事態を招いたAP通信ワシントン支局は当初、「国務卿の声明なるものは、米国内はもちろん米国外にも当社の手によって伝えられた事実はない」と白を切った。
しかし騒ぎが海を越え、ワシントン筋もこの話で持ちきりとなった。ついに追及の手を逃れられないと悟ったバイロン・ブライス支局長は、「声明書については(中略)これをスチムソン氏の責任に帰するものではない」と婉曲に自社の過ちを認めた。
なお、二十九日付の大毎第二号外によれば、問題の記事はアメリカ国内の新聞には掲載されておらず、「わざわざ輸出向きの電報に書き換えたとの疑いもある」という。何とも奇妙な記事であったが、「長官の声明」なるものが誤報--と呼ぶにはあまりに事実とかけ離れた“ねつ造” --と確認した外務省は二十九日、「これ以上本件に関して米国政府を追窮することを停止し、一切を水に流す」と声明した。
「スチムソン失言問題」そのものは、これにて一件落着した。
ところが声明の内容から幣原外相が軍の機密を外国の大使へ漏らしたとの疑いが浮上した。さらには金谷総長も統帥事項を外部へ漏らしたとして、舌鋒鋭く非難を浴びた。
先を急ぎたいのでこの辺の国内事情はひとまず置くとして、この件が民国の輿論へ及ぼした影響は見過ごせない。
北満のときも同じだが、当然の如く錦州へ攻め上ってくると思っていた関東軍が、突如反転したのを気味悪がった華人社会に、「日本軍の錦州攻撃中止は米国務長官の抗議に基づくものだ。今や日本は米国の干渉によってついに屈服するに至った」との流言が広まった。そしていったんは内政問題へと向かった華人輿論の矛先は、再び対日強硬論となって燃え盛りはじめる。
アメリカに頭の上がらない日本--。
「中立地帯」案が持ち上がったのを受けて、国際輿論へ配慮しいったん兵を退いた日本軍と、スチムソン長官の発言を巡る報道--。たまたま重なった二つの出来ごとが組み合わさってひとつのイメージを形成してしまった。
日本の輿論はこれに猛反発して、幣原外相や金谷参謀総長の責任を問う声へと転じたが、もっと厄介だったのが民国側の輿論だった。出来上がったイメージに力を得た華人輿論が高揚するにつれて蔣介石や張学良はさらに「退くに引けなく」なって、一層態度を硬化させざるを得なくなる。するとその態度が作用して、遼西方面の義勇軍や別動隊の活動も益々|活発化する。
風が吹けば桶屋が儲かる式の連鎖が起こると、まるでパブロフの犬のように新政権の華人要人たちも浮足立った。毎度おなじみの展開だが、この度も少なからぬ要人が「米国の恫喝を前に日本は断固たる態度を成し得ない」との不信感を募らせ、関東軍や在満邦人をヒヤヒヤさせた。
気づいてみれば、遼西方面にもチチハル侵攻前と同じ環境が出来あがってしまったのである。
では実際のところ、関東軍はこの時の情勢をどう判断していたのだろうか?
後年少将に昇進した片倉衷は、このときの情勢判断についてこう振り返っている。
「(張)学良は表面的に強硬姿勢を装っているが、その内実は直系軍の結束すら図れない状態にある。図らずも今回の天津事件に際してその弱点が露見してしまった」
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