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第十二章錦州

第十二章第二十三節(不測事態)

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                二十三
 
 北寧ほくねい線の南下を巡って金谷参謀総長とやり合っていた二十八日夜、杉山元すぎやまはじめ陸軍次官から雇維鈞こいきん外交部長の「中立地帯」案が伝わってきた。

 「今や民国側から撤退の申し入れをしてきた以上、(中略)差し当たり外交的手段によって敵軍の撤退を促し、この間盛んに錦州方面における(中略)治安紊乱の事実(中略)を宣伝し、列国の認識を強化云々」

 政府が外交交渉を通じて事態の解決を図ると言う以上、現場はその行く末を見守るしかない。関東軍も一時は馬賊討伐すら見合わせて、極力波紋を広げないよう心掛けた。
 と、なれば、これにて南満洲方面の諸問題は快方へと向かったはず--である……。

 ところがここへ不慮の出来ごとが加わって、事態を一層悪化させることとなる。それが前章二十七節に取り上げたスチムソン国務長官の「失言問題」であった。

 この件を巡って大毎は、号外まで発行して大々的に報じた。主見出しに「『日本不信なり』と米国政府乗出す」、サブ見出しに「『輿論に訴ふ』と叫ぶ」と大書たいしょした二十八日付号外が、マイクロフィルムのかたちで国会図書館に所蔵されている。
 【ワシントン二十七日発聯合※1】のクレジットを付した記事は、「スチムソン長官が日本政府との間に『絶対秘密裏』に行った意見交換の内容を公表し、正否の判断を輿論に託す」という部分を太字で記した。字義通りに受け取れば日本政府に対する脅しとなる一節だが、“売られたケンカは買わねば……”とばかり、同日夕刊※2は外務省の見解として強気の発言で応酬した。
 
 「可搬来かはんらい日米間に交換せられた数種の公文は、米国側の切なる懇望こんもうによって一切公表を避けたものであって、米国側がゆえなくして約束を無視して発表するなどあり得ないことである」
※1この「聯合」がAssociated Pressの意なのか日本の聯合通信社を指すのか、見分けが付かない。どちらも邦訳すれば『聯合通信』となる。
 ※2昭和二十八年まで、新聞の夕刊は翌日付で発行されていた。この記事の場合は「二十八日午後発信の二十九日付記事」となる。

 外務省スポークスマンは続けて、「一歩譲って世上せじょうに出たとしても日本としては一向に差し支えない(中略)誤解を招く恐れがあるから、全文を発表しては如何かと日本から提案したほどである」とも言い切った。
 さらに翌日の朝刊は、外務当局の談として「米国務卿の誣告ぶこく※的声明、飽く迄其の責任糾弾」と、四段見出しで論難した。陸軍当局からも「事実を正確に認識せずしてかくのごとき軽率なる放言をなす如き(中略)甚だ不謹慎と言わざるを得ない」とのコメントが発せられるなど、上へ下への大騒ぎとなった。
 ※誣告=わざと事実を偽って告げること。
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