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第十二章錦州

第十二章第十七節(天津軍救援)

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                 十七

 天津の話はここまでとして、本題はここからだ--。

 天津軍の救援要請を受けるや、本庄繁軍司令官は中央の指示を仰ぐこともなく香椎少将へ向け、「貴軍の健闘を祈る。(関東)軍はすみやかに兵力を結集して山海関へ向かい前進し、貴軍の危急ききゅうを救援する」と返電し、即座に独立守備第四大隊に溝帮子こうへいしへ出動するよう命じた。

 奉天の幕僚団は、先ず独立守備隊に北寧ほくねい線沿線の確保と後続部隊の掩護えんごに当たらせ、続いて混成第四旅団を大遼河だいりょうがの線まで進ませることとした。次いでまだチチハルにあった第二師団へ向けて、「二個大隊を残置ざんちして急ぎ奉天へ転進すべし」と下命する。
 その上で任期が迫る第三十九旅団は鄭家屯ていかとん、長春、吉林へ下げて同地の警備を担当させた。

 独立守備隊を“先鋒せんぽう”、混成第四旅団は“次鋒じほう”とし、主力の第二師団をもって本戦に臨む--との構想だ。
 しかし第二師団はチチハルへの追撃に際して千名に上る凍傷患者を出すなど欠員も多く、疲弊している。また実際問題として、チチハルから取って返すべき列車がない--という物理的な事情も重なって、同師団の錦州方面集結は三十日夕刻にズレ込むこととなった。
 ただでさえ不足しがちな兵力を補うべく、本庄司令官は朝鮮の林銑十郎司令官へ一部増援部隊の派遣を要請したが、話がややこしくなるのでこの下りは割愛かつあいする。
 
 さて、先遣隊となった独立守備第四大隊主力の第二、第四中隊は、装甲列車一台を先頭に二十七日早朝五時半、奉天駅を出発した。この列車には報道各社の記者連中も便乗し、大毎の茅野栄かやのさかえ金子秀三かねこしゅうぞうも同乗した。続いて午前八時十分発の第一列車を先頭に、第四旅団主力も続々と奉天駅を出発して北寧線を南下した。

 ちなみに北寧線は英国資本だから、日本軍が好き勝手に使っていい訳ではない。ただ事変直後の九月二十三日、関東軍は非常時の便宜べんぎを図ってもらう必要から、予め北寧線当局との間に協定を結んでいた。

 「一、北寧鉄道側は日本軍が鉄道を臨時に軍事の目的をもって使用することを容認する  。
  二、日本軍の鉄道使用の範囲は軍事上必要の最小限度に止め、該鉄道の営業を妨害しない。
  三、北寧鉄道に沿う通信などに関しては、北寧鉄道側は所要に応じ友誼的要求に応ずることを公約する。
  四、軍事輸送の実施は北寧鉄道側に通告の後、満鉄会社の材料をもって行う。ただ少量の軍事輸送は北寧鉄道側において担任し、無賃とする」
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