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第十二章錦州

第十二章第六節(策士2)

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                 六

 宣統帝が後藤に語った“策士”とは、いかなる人物たちか--? 

 奉天総領事の林久治郎はやしきゅうじろうは十月二十日の公電に、(一)「セメヨノフ」および二、三の邦人浪人(二)羅振玉らしんぎょく(三)謝介石しゃかいせき--の名を挙げた。
 「セメヨノフ」が誰かは不明だが、帝の秘書たる劉驤業りゅうじょうぎょうとつながりのある人物と付記されている。羅振玉が関東軍の意を受けて吉林の熙洽きはや黒竜江省の張海鵬ちょうかいほうを説得しに奔走した下りは、第二章に書いた通りだ。羅振玉につながる邦人浪人には大谷猛、工藤鉄三郎の名が上がり、後日になれば実行犯の上角利一も浮上する。
 謝介石のバックグラウンドについては勉強不足だが、「満州国」建国後の初代国務委員長となる人物である。

 片や天津の田尻は同月二十三日付で、(一)鄭孝胥ていこうそと息子の鄭垂ていすい(二)陳宝琛ちんほうちん一派(三)羅振玉--の三派を挙げた。陳宝琛のおいが劉驤業なので、同じ一派に括れる。
 宣統帝自身が戦後、「最後まで信頼できたのは鄭孝胥と鄭垂のみだった」と語っているように、このなかで最も忠実な臣下は鄭親子だった。その意味では天津総領事館が宣統帝とコンタクトを取る際、常に鄭垂を窓口としていたのは正鵠を射ていた。

 軽挙妄動を自重するよう申し出た領事の後藤へは「策士連中の甘言に乗せられるつもりはない」と語った宣統帝だが、この言葉を字義どおりに受けてはいけないようだ。
 その一週間後、帝は前言をひるがえし後藤へ次のような打ち明け話をしている。

 「実は奉天の事件が起こる前、内田(康哉満鉄総裁)伯爵を頼って大連もしくは日本内地へ行きたいと思い支度に取り掛かったところ、間もなく事変が起こったためこれを取りやめた。その後張海鵬ちょうかいほう張景恵ちょうけいけい熙洽きはから自分を擁立したい旨の懇請があったが、対内関係、国際関係、なかんずく日本の立場を考慮して『まだその時機にあらず』と断った」

 宣統帝は満州事変の前から天津を離れたがっていた。ただし、その後の行く先と、タイミングを探って逡巡していたに他ならない。
 そこへもって満州事変が勃発した--。

 華人社内にはすぐさま「帝が満州へ向かう」との風説が流れ、事実、水面下では羅振玉らしんぎょくら復辟派が活動を始めたのである。
 復辟派の動きが活発になるとかつて溥儀を紫禁城しきんじょうから追い出した南京政府や張学良までが、満州に帝政の復活は不都合だからといって過去の非礼を詫びつつ帝を上海または北平のロシア公使館へ迎え入れようとした。彼らにとってもこれがいかに重要な問題だったかが推し量れよう。
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