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第十一章調査員派遣

第十一章第三十六節(取り下げ)

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                 三十六

 元はと言えば顧維鈞こいきんが言い出した中立地帯案だったが、日本側が「実行不可能」と言えるほどの条件を付けてきたこともあり、そもそもの“ことの発端”はどこかへ飛んでしまった。
 しかも、あたかも提案そのものが「日本側から持ち出した」ことのように転じてしまったのだ。

 協議が暗礁に乗り上げると、南京政府は前言をひるがえし「錦州付近を『絶対に中立』とはせず、日本軍の攻撃があった場合には錦州軍は正当防衛に出る」とか、「『中立地帯』設定問題はむしろ日本側の申し出に基づくものなり」などと宣伝を始めた。

 また東京からの報道によれば、国民党スポークスマンが外国人記者へ向けて、「聯盟が日本の侵略を防止する有効な措置を講じないのだから、民国はもはや(中立地帯案に関する)提議に忠実に従う義務はない」と発言し、顧維鈞こいきん案の放棄をほのめかしたという。

 詳細は次章で書くが、十一月二十七日、北遼鉄道白旗堡はっきほ繞陽河じょうようが間で日華正規軍の衝突が発生し、日本側に戦死二名と多数の負傷者を出した。日本政府が「中立地帯案」を巡る外交交渉に和平の望みを託していた折柄でもあり、関東軍はその仇討あだうちも果たせないまま泣く泣く撤退した経緯がある。
 そこへもって国民政府スポークスマンの放言ほうげんときたもんだ。そうなれば軍部も国民輿論も、「日本軍が遼東りょうとうへ引き上げたと見るや、態度を一変させた」と息巻いた。

 片や「中立地帯案」は張学良ちょうがくりょう側にも不評で、十一月三十日には錦州軍参謀長の榮臻えいしんから張学良へ宛て、「錦州を中立地帯に為すとの案は確実なりや? 予は反対なり」と打電してきた。
 これを受けて十二月一日、張学良は蒋介石しょうかいせきへ「巷間こうかん、錦州軍が山海関へ撤退するかのように伝えられるが、そのようなことは絶対にない。錦州軍は日本軍に対抗すべく準備中なので、心配なきよう」との電報を送っている。

 結局、日華の折り合いはつかず、施肇基代は五日、ドラモンド総長宛へ実質的に「中立地帯設定」案を取り下げる「覚書」を送ってきた。

 「一、民国政府は錦州中立地帯に関する日本の提案を受諾できない。
二、日本側が錦州を攻撃せず、また錦州地方から鉄道付属地内へ帰還した日本軍を再び進出させなければ、両軍衝突の可能性は明らかに消滅する。なお、錦州軍による日本軍駐屯地方面への進出は断じて民国の政策ではない。
三、民国の軍隊を「自国領内から撤退させろ」という日本の要求に、理事会が屈するようでは我が国民として驚愕きょうがくするしかない。
四、馬賊掃討と称して日本軍が「中立地帯に侵入し得る」という日本側の留保条件は、日本による満洲の完全なる占領を承認するに等しい。
五、第三国の組織された軍隊による保障がなければ、中立地帯の設定は受け入れられない。
六、錦州軍の関内集結は満洲放棄にも等しく、中立地帯案は輿論を挙げて反対するところである」
 
 こうしてついに八日、中立地帯案を巡る交渉は打ち切られた。
 ブリアン議長の苦衷くちゅうは察するに余りあるものがあった。

 官房長官のレジェの話によれば、議長は両当事国の立場に配慮して、掛け値なしに献身的な努力を続けた。聯盟が今回のように例外的な措置を重ねたことに対して、一部の理事からは「欧州の平和維持に悪例を残すことになる」との批判も上がった。それでも議長は辛抱強く理事たちを説得して、大局的な観点から世界平和を希求ききゅうしてきたという。

 ところが交渉の最後の段になって、日本政府から強硬な対案が出たとあっては、もはや「中立地帯」の定など見込みが立たなくなった。聯盟擁護を天職としてきたブリアン議長が、「このまま指をくわえて日本軍の錦州攻撃を見過ごすしかないのか」と悲嘆にくれる姿は見るに忍びなかったと、自嘲気味に杉村公使へ話して聞かせた。

 その心情を汲み取ったレジェは、杉村を前に「東京がそんなに不満ならば、聯盟は本来の権威に立ち戻り、八日をめどに最後の公開会議を開いて規約の原則に基づき勧告案を出し、世界の公論へ訴えて今回の理事会を終えた方がいい」と言い捨てた。
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