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第十一章調査員派遣

第十一章第二十二節(アキレス腱)

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                 二十二

 錦州は満洲の中でも特にデリケートな場所である。

 英国が利権を持つ北寧鉄道ほくねいてつどうの要所であり、英国の資産を傷つければ日華の紛争が日英間のもめ事へ飛び火する恐れもあったからだ。
 また、ここで大規模な戦闘が起こって錦州軍が敗れれば、敗残兵はたちまち長城を越えて華北へとなだれ込むだろう。それを追って日本軍が華北へと侵入すれば、混乱は民国本土へと広がる可能性も否定できなかった。
 そうした意味もあって、華北方面に利権を持つ欧米列強には錦州がまさに、満洲の“アキレス腱”なのであった。

 錦州の緊張が伝わるや、英国政府は北平(北京)の駐在武官を現地へ視察に向かわせた。その報告が十一月二十六日、国際聯盟事務局へ届いた。

 「錦州の状勢は案外平穏で、大部隊の援軍が続々到着しているなどという様子は見て取れない」

 少し遅れて十二月二日、フランスのオブザーバーも十一月二十六日時点の錦州軍の配置を伝えてきた。
 「一、山海関と錦州の間に兵員二千、機関銃十一。
 二、錦州およびその付近に歩兵第十二旅、工兵および輜重兵一個大隊。七七ミリ砲十八門、機関銃四十八、兵員総数一万八千。
 三、朝陽鎮ちょうようちんに軍司令部、歩兵第十九旅、通信隊一個中隊、衛兵一個中隊、騎兵一個中隊、八五ミリ砲一個中隊、兵員総数八百。
  四、大遼河でんに兵二千。
  五、溝帮子こうへいしに歩兵二個中隊、七五ミリ臼砲きゅうほう一個中隊、機関銃一個中隊、機関銃十二および三七ミリ砲十門、兵員総数千二百。
  六、営口えいこう=溝帮子間の鉄道沿いに三個中隊からなる歩兵一個大隊、溝帮子=盤山ばんざん間南方に一個中隊および装甲列車、兵員総数八百。
  七、溝帮子=打虎山だこさん間に一個大隊および青堆子せいたいしに一個中隊、打虎山に三個中隊、装甲列車二台、兵員総数八百。
  八、打通線だつうせん沿線に独立騎兵一旅、兵員総数二千」

 ただしこの報告も、歩兵一旅、工兵一個大隊および騎兵一旅を除けばこれらの兵力は事変発生前の常備配置と変わらず、「列車や人の移動はない」と書き添えていた。

 これらに反して日本側は同じ頃、錦州軍による後方攪乱が白旗堡はっきほ新民屯しんみんとんにまで迫ったと報告してきた。
 新民屯から奉天までは、鉄道の駅で六つ。白旗堡は八つとなる。日本側の報告が正しければ、関東軍がこれに神経を尖らせるのも当然と言えば当然だろう。
 実際、民国の施肇基しちょうき代表だって「錦州が大変だから、一刻も早く聯盟の干渉を加えるべき」とボルテージを上げている。

 日華両当事国が危機を訴えても、「第三者」である英・仏のオブザーバーが現地へ赴くとそんな事実は見当たらなかった。「幽霊が出た!」、「UFOを見た!!」といった類の話と同じで、見える人には見えても見えない人にはまるで見えなかったから、誰もそれを信じようとはしなかった。
 かくして錦州問題は国際社会が信頼を置ける「目撃者」を欠いたまま、いたずらに緊張だけが高まっていくことになる。
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