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第十一章調査員派遣

第十一章第七節(ステータス・クオ)

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                 七

「撤兵交渉の見通しはどうですか」
 聯盟事務総長にとっての焦眉の課題はあくまで「撤兵」の一事にある。それが宙に浮いたままでは、聯盟として収まりはつかない。

 理事会の外側では日本に有利な空気が醸成されつつあるようだが、当の聯盟事務局内には依然として対日強行論が根強い。有り体に言えばこの時点における理事会には、相反する二つのムードが混在していたといってよい。

 「視察員受け入れ」で日本側が折れてきたので、残る課題は「五大綱協定」と「撤兵交渉」の二つになった--。
 ところが肝心の“交渉”となった場合、いったい誰を相手に話し合いを進めるのか--? これがどうも、はっきりしなかった。

「日本側としては、張学良ちょうがくりょうをはじめとした満洲旧政権との交渉など到底承諾できません。やむを得ないとなれば、各地に新設されつつある治安維持会と交渉するしかありません」
 日本側は満州に立ち上がろうとしている「治安維持会」と交渉すると主張している。しかし理事会内には「それでは出来レースではないか」との懐疑の声が少なくない。
「南京政府が叛逆者とみなす者たちとの交渉など、理事会として承認などできるはずもない!」
 ドラモンド総長も「とても同意できない」との態度を露わにしている。
 だが交渉相手に関する言い分では、日本側の理屈にも一理あった。

 聯盟が目指すゴールは、「ステータス・クオ(現状維持)」だ。
 つまり張学良ちょうがくりょうの旧奉天政権を呼び戻し、満洲の行政を旧態きゅうたいに復すること--。
 しかし、そもそも事変の元凶がんきょうである張学良を政権に復帰させるなど、満洲に暮らす日本人にとっては悪夢以外の何ものでもない。日本人や朝鮮人ばかりでなく現地の華人社会からも、彼の復帰を望む声などとんと聞かれないのだし--。

 かてて加えて日本側は、かつて交渉相手に起因する苦い思いをしている。
 「対華二十一箇条」の条約を締結した相手は当時の北京政府だった。ところが蒋介石の北伐を経て中華民国の実権が南京政府へ移るや、「そんな条約結んだ覚えはない」といって難癖をつけはじめた。しかもその南京政府の南には、これと対立する広東政府すら控えている。
 もしいま南京政府との間に交渉が成立したとしても、この先の政局の移り変わりによっては、いつまたその効力が覆るか分からない。この国にはそうした危うさが常に付きまとっているのだ。

 実際、事変後わずか二カ月しか経っていないというのに、満州を追われた張学良の凋落ぶりには目を当てられないものがある。最近にいたっては南京政府の要人にすら彼を見限る向きがあって、財政部長の宋子文などは「張学良はもはやアセット(資産)にあらずして、ライアビリティ(負債)なり」と漏らしているという。
 そのような不安定な相手と交渉しても、いつまた話が覆らないとも限らない。日本側としては自分たちの信頼を置ける相手と交渉したい訳で、なおかつ交渉によって取り決められた安定的な状態を長く維持したいと願ったのである。

 まして話が撤兵問題ともなれば、在留邦人にとっては死活問題だ。遠く離れた聯盟との“交渉ごと”などで済まされる話ではない。もし理事会が机上の空論をグズグズ並べるならば、“ちゃぶ台返し”も辞さないくらいの腹を決めていた。
「それならば撤兵交渉は行わず、治安維持会の実権が確立して安全が確保されるのを待って、日本側から自発的に撤兵するという方法もあります」
 さしもの杉村でさえ、そう開き直って見せた。

「日本側がそのような態度をとるならば、理事会から民国側へ圧力を加えるなど到底できない相談だ。大綱交渉の望みも遠のくだけでしょう……」
 腹心と思っていた杉村がいつもと違う調子を見せてきたので、ドラモンドも力なくかぶりを振って肩をすくめるしかなかった。

 結局、話が堂々巡りになってきたので、総長はいったん話題を転じた。
「ところで視察員のことですが、調査の目的は大陸における日本の権益が蹂躙じゅうりんされ、不当な排日運動が両国間の国交の障害となっているという日本側の主張を実地に確かめ、理事会へ報告書を提出するということでよろしいですね」
 この点については杉村にも異論はない。
 以前にも書いたしこの先も繰り返すが、これこそが「聯盟調査員」の本来の使命なのである。
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