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第十一章調査員派遣

第十一章第六節(日本代表部案)

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 理事会二日目となる十七日の午前、芳澤からの言伝ことづけを預かった杉村陽太郎公使がドラモンド総長と会談した。

「まだ本国の了承は取り付けていませんが、芳澤理事は今回の理事会に際して、このような方針で臨むお考えだそうです」
 そう言って杉村は、総長へタイプ打ちのメモを手渡した。

「もしこの協定が成立すれば、日本軍は撤退するのですか?」
 メモを一読した総長は、思いのほかつれない言葉でこれに応じた。日本側としては“ドヤ顔”で提示したつもりだったが、聯盟の希望するラインとは依然懸け離れていたようだ。
 そこにはこうあった。

 「一、日華直接交渉による五大綱協定締結により在満邦人の安全問題解決を主張する。
  二、理事会がその主張を受諾するならば、大陸における排日問題の実態を調査する聯盟の視察員を派遣することも考慮する。
  (イ)視察員の人選は日本側の希望を重視するよう求める。
  (ロ)視察員の任務は過日の幣原外相からの訓令に基づき、日華交渉問題や撤兵問題に影響を及ぼさないようにする。
  三、これらの経過は随時理事会に報告する」 
 
 「直接交渉」と引き換えに、聯盟から派遣される「視察員」を受け入れる--。
 まだ可能性に言及したまでだが、幣原外相が「場合によっては当方から視察員派遣を要請することもあり得る」と折れてきたので、これを足掛かりに落としどころを探ろうとの腹だった。

「協定のみでは難しいでしょう。協定の内容を先方が着実に実行するという確信が得られなければ撤兵は不可能だ」
「それなら協定の成立と日本人の生命財産の安全確保は必ずしも一致しないということになります。協定に加えて安全の確認を撤兵の条件とし、それでもやはり『協定締結が絶対条件だ』など、我々のような第三者にはとても理解し難い」
 
 視察員受け入れでは譲歩したものの、芳澤の提案には撤兵に関する文言が含まれていない。それがドラモンドには解せなかった。

 目下の課題は「五大綱協定」と「視察員」および「撤兵」の三つ--。
 スチムソン長官もサイモン外相も、日華条約に関わる交渉と撤兵の交渉を切り離すなり、並行して行っても構わないとは言ったものの、「調査員を受け入れるから撤兵には触れない」とは言っていない。
 そういう前提に立つならば、芳澤の提案は「話をすり替えた」ように見えてならない。ドラモンドの言い分ももっともだ。

 だが何せ、肝心の満洲では連日各地に馬賊が出没し、治安の回復など望める環境にないのだから、日本側として軽々に「撤兵」など口にはできない。
 そう考えれば、かえすがえすも九月の時点で安易な声明を発したことが悔やまれてならない。
 まあ、あの時はあのときでそうせざるを得なかったのだから、如何ともし難い。何にしても、後講釈なら何とでも言えるのだ……。

 ともあれ、総長の受けは悪かったが芳澤が視察員受け入れに言及した意義は大きい。以降、「スチムソン案」、「サイモン案」と並ぶ「日本代表部案」となって協議のたたき台に上ることになる。
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