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第十章昴々渓・チチハル
第十章第三十二節(安堵)
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三十二
ところで大毎奉天支局も決して洸三郎たちを見捨てた訳ではなかった。
嫩江のときの反省を踏まえ、三池支局長は内地から応援にきた金子秀三と森、写真班の松尾を急ぎチチハルへ派遣した。
行けと言われた彼らとて、チチハルどころか満州の土地勘そのものがない。それでもハルビン経由の東支鉄道でチチハルへ急行した。ソ連と旧奉天政権が共同経営するこの鉄道の沿線警備に当たるのが護露軍だ。
北満の危機が叫ばれる頃から排日気運を露骨に表し、日本人乗客などいつ災難に見舞われても不思議はなかった。三人はそうした危険な橋を渡ってまで、チチハルへやってきたのだった。
そのチチハルへ着いた金子に課された最初のミッションは、何より洸三郎を見つけ出すことだった。
「見知らぬ日本人が転がり込んだ」との情報をもとに、ボロボロになった朝日旅館を探し当てた彼らは、ようやく毛布にくるまった“芋虫”二体を発見した。
二人は本来、まったくの初対面だ。だが金子の方では何ら苦もなく相手を特定できた。
「大きな身体にロイド眼鏡」--。
芋虫の片割れは評判通りの風貌だった。ただ事前の情報になかったのは、その顔が凍傷にやられて黒褐色になっていたことだ。表皮がところどころ剥落し、その下から覗かせるピンク色の薄皮が痛ましさを物語った。まだ“駆け出し”の域を出ない洸三郎が、廃屋の片隅でこんな風に自分たちの到着を待ちわびていたのかと思うと、金子は胸が熱くなった。
きっと心細かっただろう……。
「支局は、本社は、どうして連絡員を寄こしてくれないのか」と、歯がゆさを噛みしめ続けていたに違いない……。
そんな憂いを浮かべた同僚へ、洸三郎は万感の思いをただ一言に込めた。
「来てくれたか~」
それはまるでため息だった。
怒りも恨みも悲しさも、一切匂わせない心からの安堵だった。受けた側も素直に喜びを分かち合えるわだかまりのない声だった。
「ご苦労さんだったな。明日からはみんな僕らがやるよ。君は寝てていいよ」
金子がそう慰めると、洸三郎はやっと笑顔を見せた。そして寝床の上に胡坐をかいてこう言った。
「エラかったぞぉ~」
それから洸三郎はここへ至るまでの苦労話をしたが、話の中には会社や上司をなじる言葉は出てこなかった。彼はそういう男なのだ。
奉天から被ってきたソフト帽のツバが邪魔で切り取った話を聞いた時、金子は予備の白い毛糸の目出し帽を差し出した。
「ええな、これ。これで楽ができるがな」
金子の好意に子どものような表情をつくった彼は、それからずっとこの目出し帽を愛用した。昴々渓で雇った馬車はここでも自分で使わず、傷病者を後送する軍に拠出した。
このときもらった目出し帽を被って馬車と並んで歩く彼の姿が、写真に収まり内地へ送られた。写真は新聞の号外や『サンデー毎日』に掲載された。
ところで大毎奉天支局も決して洸三郎たちを見捨てた訳ではなかった。
嫩江のときの反省を踏まえ、三池支局長は内地から応援にきた金子秀三と森、写真班の松尾を急ぎチチハルへ派遣した。
行けと言われた彼らとて、チチハルどころか満州の土地勘そのものがない。それでもハルビン経由の東支鉄道でチチハルへ急行した。ソ連と旧奉天政権が共同経営するこの鉄道の沿線警備に当たるのが護露軍だ。
北満の危機が叫ばれる頃から排日気運を露骨に表し、日本人乗客などいつ災難に見舞われても不思議はなかった。三人はそうした危険な橋を渡ってまで、チチハルへやってきたのだった。
そのチチハルへ着いた金子に課された最初のミッションは、何より洸三郎を見つけ出すことだった。
「見知らぬ日本人が転がり込んだ」との情報をもとに、ボロボロになった朝日旅館を探し当てた彼らは、ようやく毛布にくるまった“芋虫”二体を発見した。
二人は本来、まったくの初対面だ。だが金子の方では何ら苦もなく相手を特定できた。
「大きな身体にロイド眼鏡」--。
芋虫の片割れは評判通りの風貌だった。ただ事前の情報になかったのは、その顔が凍傷にやられて黒褐色になっていたことだ。表皮がところどころ剥落し、その下から覗かせるピンク色の薄皮が痛ましさを物語った。まだ“駆け出し”の域を出ない洸三郎が、廃屋の片隅でこんな風に自分たちの到着を待ちわびていたのかと思うと、金子は胸が熱くなった。
きっと心細かっただろう……。
「支局は、本社は、どうして連絡員を寄こしてくれないのか」と、歯がゆさを噛みしめ続けていたに違いない……。
そんな憂いを浮かべた同僚へ、洸三郎は万感の思いをただ一言に込めた。
「来てくれたか~」
それはまるでため息だった。
怒りも恨みも悲しさも、一切匂わせない心からの安堵だった。受けた側も素直に喜びを分かち合えるわだかまりのない声だった。
「ご苦労さんだったな。明日からはみんな僕らがやるよ。君は寝てていいよ」
金子がそう慰めると、洸三郎はやっと笑顔を見せた。そして寝床の上に胡坐をかいてこう言った。
「エラかったぞぉ~」
それから洸三郎はここへ至るまでの苦労話をしたが、話の中には会社や上司をなじる言葉は出てこなかった。彼はそういう男なのだ。
奉天から被ってきたソフト帽のツバが邪魔で切り取った話を聞いた時、金子は予備の白い毛糸の目出し帽を差し出した。
「ええな、これ。これで楽ができるがな」
金子の好意に子どものような表情をつくった彼は、それからずっとこの目出し帽を愛用した。昴々渓で雇った馬車はここでも自分で使わず、傷病者を後送する軍に拠出した。
このときもらった目出し帽を被って馬車と並んで歩く彼の姿が、写真に収まり内地へ送られた。写真は新聞の号外や『サンデー毎日』に掲載された。
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