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第十章昴々渓・チチハル

第十章第四節(極寒の地)

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 嫩江のんこう支隊は十一月十三日をもって第二師団長多門二郎たもんじろう中将の指揮下に入った。このため吉林きつりん方面の治安維持には在郷軍人会が当たることとなった。

 長春で軍議を終えた坪井大佐はその日のうちに吉林へ戻り、翌十四日朝、聯隊を二個列車に分乗させて長春へ急いだ。
 ここで鄭家屯ていかとんからやってきた第二十九聯隊と合流し、あらためて四個列車に編成替えしたうえで午後六時以降、順次大興だいこうへと出発した。

 出動した第二師団が着用した被服は、零下二、三十度に対応すると公称される「亜寒地帯防寒服」だ。
 ネルの下着の上に厚手のメリヤスシャツを重ね、その上から軍服を着て防寒胴衣をまとうというもの。軍袴ぐんこの下には毛の襦袢じゅばんを履き、足は木綿の靴下の上から毛の靴下を重ねて防寒靴を着用することになっている。
 だが各部隊の話によれば、実際に防寒服が支給されたのはごくわずかで、とくにほとんどの兵隊が通常の軍靴を履いていたという。
 いくら東北健児とうほくけんじほまれれに浴する彼らとは言え、さすがに満洲の寒気に太刀打ちなどできない。出動がいかに急ごしらえであったかをよく物語るエピソードで、このことが後に悲劇的な結末を呼ぶこととなる。
 ちなみに、シベリア出兵を経験した陸軍であるから、「極寒地方用」の防寒服というのも持っている。零下四十度以下となる地方を想定した被服で、木綿の裏側を羊かヤギの毛皮で覆い、首回りと袖裏はウサギの毛。ズボンの上からウサギの毛のついた半袴はんこを履き、靴も防寒長靴へと変わるのだが、今回は出番がなかった。

 被服ばかりではない。
 十一月も中旬を迎え、これから零下二十度の原野を二昼夜も疾走するというのに、彼らにあてがわれた列車にはスチームすら通っていなかった。
 さすがに軍旗を奉持ほうじする聯隊長には寝台一個が充てられたが、将校たちは四人用の寝台スペースに七人押し込められ、兵下士にいたっては隙間風の吹き込む貨車の中で目白押しに折り重なりながら寒さに耐えた。

 被服に車両、さらに将兵を困らせたのは移動中の食事だった。出発時にはまだ正式な目的地を知らされなかったから、各自が携行した食料は五食分。長春から乗ってきた部隊は三食分しか用意しなかった。途中駅での補充も望めず、各隊は携帯した五食分を半分だけ食べて七食へ、三食分は五食へと小分けして道中をつないだ。

 順調にいっても長春から江橋までの移動には三十時間を要する。おまけに十四日の夜半、洮昴線の鎮東ちんとう北方十二キロの地点へ敵の騎兵約六十騎が押し寄せ、線路と電線を破壊した。
 こうした妨害がちょくちょくあって、大興駅に着いた頃には日付も変わって十六日になっていた。

 遅れは出たものの、この日続々と大興へ到着した第二師団の列車数は、十一日に現地入りしていた若松中佐の第二騎兵聯隊を合わせて三十編成、貨車六百輛、輸送人員六千四百人、馬千七百頭を数えた。
なお師団司令部は、この時点における各隊の様子を次のように報告している。

 「一、歩兵第三旅団長の指揮する歩兵二個大隊、野砲一個中隊は後衣拉巴ごいりはに、騎兵第二聯隊長の指揮する歩兵一個大隊、騎兵二個中隊、野砲一個大隊は烏諾頭站うだくとうたんに、その他部隊は大興付近にあり。
二、師団の鉄道輸送にあたっては、列車の整理に意外と手間取り歩兵第二十九聯隊は後衣拉巴に下車集結を終えるも、歩兵第十五旅団司令部、歩兵第三十聯隊は本夜中に後衣拉巴へ下車を終える予定。歩兵第七十八聯隊は今夜乗車のまま江橋に待機させ、明十六日後衣拉巴へ下車せしむ。
三、弾薬の集積は列車整理の関係上十六日には完了し得ず」
 
 列車の到着が真夜中だったこともあり、師団長から「今夜は車中に寝て、明朝出発してよろしい」との許しが出たが、車中にいても寒いし食う物はない。将兵は車中、寒さのため二昼夜ほとんど寝ていなかったが、当初の予定通り駅から三千メートル離れた後衣拉巴ごいりはまで行くことにした。

 三千メートルといってもそれは地図上の直線距離のこと。地形や地物が単調で目印にすべきものがないばかりか、どこが道路なのかも判然としない。方向を定めるのは困難を極めた。半月が弱々しく中空にかすむ闇のなか、一面の荒野を行くのだから、三千メートルのはずの行程を結局四千五百メートルあまり歩いて午前三時頃、ようやく露営地にたどり着いた。
 零下二十度を下回る極寒のなか、火を起こして露営の準備が整う頃には東の空が白み始めた。朝八時には再び烏諾頭站うだくとうたんへ向け出発である。坪井聯隊長は後日、この夜のことを振り返り、「ものの一時間も寝た者が一番良いくらいだった」と語った。
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