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第十章昴々渓・チチハル
第十章第一節(検閲)
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第十章
一
坪井善明大佐は吉林発、長春行きの列車に揺られていた。
十一月十二日--。
内地であれば秋が深まり紅葉を迎える頃だが、春秋の極端に短い満州はすでに本格的な冬を迎えようとしていた。
雲ひとつない好天にもかかわらず、寒暖計の水銀は零下二十度を指している。見え坊ばかりで頼りない陽はすでに西へ傾き、朔北の荒涼たる原野を黄金色に染め上げた。列車が長春へ近づくにつれて夕焼け色の上に染み出た藍色の帯が、その面積を広げ、濃さを増していった。
坪井大佐の高田歩兵第三十聯隊が旅順へと渡り、満洲駐箚の任に就いたのは前年十月のこと。もっともこの時点で坪井自身は未だ麻布聯隊区司令官の職にあった。
将校は転勤族だから、必ずしも部隊と行動を共にする訳ではない。彼が聯隊長の任命を受けて満洲へと渡ってきたのは同じ年の十二月だった。
前任の聯隊長は坪井と入れ替えに奉天特務機関長へ横滑りする土肥原賢二大佐だ。坪井は陸軍士官学校十四期卒で、土肥原の二期先輩にあたる。後輩の後任という席には心情的な抵抗もあったろうが、何せ土肥原は陸軍大学卒。破竹の勢いで出世階段を登ってきただけに如何ともし難い。中佐、大佐で同格に並ばれ、ついに聯隊長人事で先を越されてしまった。
余談になるが満洲事変の前日、九月十七日は在満洲諸部隊への前期検閲が行われたことで知られる。この場合の「検閲」とは、国語辞典にあるような「思想や言論を取り調べること」の意ではなく、軍隊における中間、期末テストのようなものだ。
日頃の訓練の成果を軍司令官の前で実演し評価を受ける。軍隊に落第はないが、手を抜けば実戦での「死」につながるから、学校のテストよりも真剣そのものとなる。内地、外地を問わず、あらゆる部隊が「その日」を前にしてちょうど試験前の学生のような心持ちとなるのだった。
であるから翌十八日は当然、試験明けで最も気の緩んだ日となった。
第三十聯隊は事変前、関東軍司令部のお膝元の旅順に駐箚していただけに、日頃から軍司令官の視察を受ける機会が多く、このときの検閲には参加しなかった。むしろ日頃の訓練を労うためにと、十九日には家族運動会を予定していたくらいだった。
そんな次第もあって、事変当夜に出動命令を受けた坪井聯隊長は、まず「自分の聯隊だけがまだ検閲を受けていないので、最後に自分の隊だけが出動の検閲を受けるのだ」と思ったという。
とはいっても何か腑に落ちないものがあったので、週番士官に駅の様子を尋ねさせたところ、満鉄の方でも「列車の準備をしろ」との命を受けているという。前日の検閲において、遼陽の第二師団は列車へ乗り込むところまでがシナリオに入っていたから、坪井はなお本気になり切れず、ついには隣の重砲聯隊へ電話をかけて様子を尋ねた。するとこちらも同時刻に出動命令を受けていたと知り、ようやく「これは訓練ではない」と悟ったという。
聯隊長でさえそうなのだから、兵卒に至ってはもっと呑気なもので、後日坪井が内地の地元新聞へ語ったところでは、兵隊の間にこんな会話すら交わされた。
「聯隊長、今日はバカに気合を入れているが、いったいどこまで行くつもりだろう?」
「オヤオヤ、とうとう旅順駅まで来てしまったぞ」
おまけに翌日の昼頃、「今日はやけに演習が長いね」と隣の家へ様子をうかがいに行った中隊長夫人がいたとの逸話もある。
坪井聯隊長が何故こんな話を新聞社へしたかというと、関東軍のあまりに素早い出動を評して「これは軍部が計画的に起こしたことだ--」との噂を立てられたのに憤りを覚え、反論したかったからであった。
ともあれ事変勃発後、高田聯隊は同郷の新発田第十六聯隊とともに吉林へ行き、吉林軍の武装解除と同地の治安維持、朝鮮人の保護に従事する。
一
坪井善明大佐は吉林発、長春行きの列車に揺られていた。
十一月十二日--。
内地であれば秋が深まり紅葉を迎える頃だが、春秋の極端に短い満州はすでに本格的な冬を迎えようとしていた。
雲ひとつない好天にもかかわらず、寒暖計の水銀は零下二十度を指している。見え坊ばかりで頼りない陽はすでに西へ傾き、朔北の荒涼たる原野を黄金色に染め上げた。列車が長春へ近づくにつれて夕焼け色の上に染み出た藍色の帯が、その面積を広げ、濃さを増していった。
坪井大佐の高田歩兵第三十聯隊が旅順へと渡り、満洲駐箚の任に就いたのは前年十月のこと。もっともこの時点で坪井自身は未だ麻布聯隊区司令官の職にあった。
将校は転勤族だから、必ずしも部隊と行動を共にする訳ではない。彼が聯隊長の任命を受けて満洲へと渡ってきたのは同じ年の十二月だった。
前任の聯隊長は坪井と入れ替えに奉天特務機関長へ横滑りする土肥原賢二大佐だ。坪井は陸軍士官学校十四期卒で、土肥原の二期先輩にあたる。後輩の後任という席には心情的な抵抗もあったろうが、何せ土肥原は陸軍大学卒。破竹の勢いで出世階段を登ってきただけに如何ともし難い。中佐、大佐で同格に並ばれ、ついに聯隊長人事で先を越されてしまった。
余談になるが満洲事変の前日、九月十七日は在満洲諸部隊への前期検閲が行われたことで知られる。この場合の「検閲」とは、国語辞典にあるような「思想や言論を取り調べること」の意ではなく、軍隊における中間、期末テストのようなものだ。
日頃の訓練の成果を軍司令官の前で実演し評価を受ける。軍隊に落第はないが、手を抜けば実戦での「死」につながるから、学校のテストよりも真剣そのものとなる。内地、外地を問わず、あらゆる部隊が「その日」を前にしてちょうど試験前の学生のような心持ちとなるのだった。
であるから翌十八日は当然、試験明けで最も気の緩んだ日となった。
第三十聯隊は事変前、関東軍司令部のお膝元の旅順に駐箚していただけに、日頃から軍司令官の視察を受ける機会が多く、このときの検閲には参加しなかった。むしろ日頃の訓練を労うためにと、十九日には家族運動会を予定していたくらいだった。
そんな次第もあって、事変当夜に出動命令を受けた坪井聯隊長は、まず「自分の聯隊だけがまだ検閲を受けていないので、最後に自分の隊だけが出動の検閲を受けるのだ」と思ったという。
とはいっても何か腑に落ちないものがあったので、週番士官に駅の様子を尋ねさせたところ、満鉄の方でも「列車の準備をしろ」との命を受けているという。前日の検閲において、遼陽の第二師団は列車へ乗り込むところまでがシナリオに入っていたから、坪井はなお本気になり切れず、ついには隣の重砲聯隊へ電話をかけて様子を尋ねた。するとこちらも同時刻に出動命令を受けていたと知り、ようやく「これは訓練ではない」と悟ったという。
聯隊長でさえそうなのだから、兵卒に至ってはもっと呑気なもので、後日坪井が内地の地元新聞へ語ったところでは、兵隊の間にこんな会話すら交わされた。
「聯隊長、今日はバカに気合を入れているが、いったいどこまで行くつもりだろう?」
「オヤオヤ、とうとう旅順駅まで来てしまったぞ」
おまけに翌日の昼頃、「今日はやけに演習が長いね」と隣の家へ様子をうかがいに行った中隊長夫人がいたとの逸話もある。
坪井聯隊長が何故こんな話を新聞社へしたかというと、関東軍のあまりに素早い出動を評して「これは軍部が計画的に起こしたことだ--」との噂を立てられたのに憤りを覚え、反論したかったからであった。
ともあれ事変勃発後、高田聯隊は同郷の新発田第十六聯隊とともに吉林へ行き、吉林軍の武装解除と同地の治安維持、朝鮮人の保護に従事する。
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