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第九章北満経略
第九章第十六節(九仭の功)
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十六
明けて六日の朝、瀋陽館の一号室には部屋主の本庄司令官以下三宅参謀長、板垣大佐と竹下義晴中佐、片倉の姿があった。
「馬占山もなかなかしぶといな……」
名もなき国境の警備隊長ごとき--と高をくくっていたら、その戦意は思いのほか強く、予想外の苦戦を強いられた。まったく“ダークホース”とはよく言ったものだ。板垣は率直な感想で敵将を称えた。
「当方も少々相手を見くびっていたようですな。今後の反省といたしましょう」
金谷参謀総長から「今後はすべからく、中央の指示に従え」とのお達しだが、三宅参謀長は当然の如く作戦続行を匂わせた。集まった参謀たちもみな同じ考えのようだ。参謀長に肩入れするように、竹下参謀が続いた。
「そろそろ長谷部少将の旅団が現場へ到着する頃でしょうから、ほどなく戦況は持ち直すでしょう」
そうなれば自然の流れとして、この人が黙っていない。
「いったん白旗を上げておきながら騙し討ちにしてきたのだから、断じて馬占山を許す訳にはいかない」
片倉大尉はいつものように拳を振り上げると、中央の弱腰に噛みついた。
「戦闘の全責任は黒龍江側にある。これを断固膺懲※することに第三国の顔色をうかがうなどもっての外だ」
※膺懲=懲らしめること。
軍司令官が何も言わないうちから、参謀たちはどんどん話を進めていく--。本庄はその様子を、独り浮かない顔で見ていた。参謀たちの話に彼が乗り気薄だったのは、決して「自分を差し置いて--」という“メンツ”にこだわったのでも総長の命令に気後れしたのでもない。ただ白川大将の一言が、胸につかえていたのだ。
「くれぐれも若い連中に引きずられるようなことがあってはならぬぞ--」
議論の末、南陸相と金谷総長へ宛てて再度意見を具申することになった。
要するに、嫩江支隊は文字通り架橋工事の掩護を目的に現地へ赴いたが、馬占山軍の騙し討ちに遭って大損害を被った。それ故、事態が拡大した全責任は先方にあるので、この際、断固として黒龍江省軍を懲らしめるべきである--ということだ。
参謀たちが特に危惧したのは華人社会に惹起する心理的な影響で、ここで退いたら却って問題は大きくなるとの懸念であった。
「軍がいやしくも消極に流れ(皇軍の)“威武”を汚すようなことがあれば、それこそ“九仭の功を一簣に欠く※1”の例えとなり、『日本軍は弱小の民国軍なら強い態度に出てくるものの、ひとたびその背後にソ連ロシアの影を見て取るや、ただ指をくわえて傍観するだけとなる』との印象を与えかねない。そうなれば徒に軽侮の念を増長し、今後の満蒙経略に及ぼす影響は大きい」
だからこの場の判断は現場に一任して欲しいと結んだ。
「願わくば、本職以下関東軍将卒の微衷※2に信頼し、黒龍軍に対する作戦は軍機宜の処置に一任せられたく、特に意見を具申す」
※1九仭の功を一簣に欠く=「簣」はもっこの意。高い山を築くのに、最後のもっこ一杯分が足りずに完成しない。長い間の努力も最後の詰めを欠いて失敗に終わる例え。
※2微衷=本心。
話は脱線するが、日本国憲法の前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し云々」とあるのを以て、「日本語がおかしい」とか「“て・に・お・は”がなってない」とけなす向きがある。だが上に引用したように、戦前の公文書にはよく見られる表現であって、決して白洲次郎が間違えたのではない点、特に指摘しておく。
明けて六日の朝、瀋陽館の一号室には部屋主の本庄司令官以下三宅参謀長、板垣大佐と竹下義晴中佐、片倉の姿があった。
「馬占山もなかなかしぶといな……」
名もなき国境の警備隊長ごとき--と高をくくっていたら、その戦意は思いのほか強く、予想外の苦戦を強いられた。まったく“ダークホース”とはよく言ったものだ。板垣は率直な感想で敵将を称えた。
「当方も少々相手を見くびっていたようですな。今後の反省といたしましょう」
金谷参謀総長から「今後はすべからく、中央の指示に従え」とのお達しだが、三宅参謀長は当然の如く作戦続行を匂わせた。集まった参謀たちもみな同じ考えのようだ。参謀長に肩入れするように、竹下参謀が続いた。
「そろそろ長谷部少将の旅団が現場へ到着する頃でしょうから、ほどなく戦況は持ち直すでしょう」
そうなれば自然の流れとして、この人が黙っていない。
「いったん白旗を上げておきながら騙し討ちにしてきたのだから、断じて馬占山を許す訳にはいかない」
片倉大尉はいつものように拳を振り上げると、中央の弱腰に噛みついた。
「戦闘の全責任は黒龍江側にある。これを断固膺懲※することに第三国の顔色をうかがうなどもっての外だ」
※膺懲=懲らしめること。
軍司令官が何も言わないうちから、参謀たちはどんどん話を進めていく--。本庄はその様子を、独り浮かない顔で見ていた。参謀たちの話に彼が乗り気薄だったのは、決して「自分を差し置いて--」という“メンツ”にこだわったのでも総長の命令に気後れしたのでもない。ただ白川大将の一言が、胸につかえていたのだ。
「くれぐれも若い連中に引きずられるようなことがあってはならぬぞ--」
議論の末、南陸相と金谷総長へ宛てて再度意見を具申することになった。
要するに、嫩江支隊は文字通り架橋工事の掩護を目的に現地へ赴いたが、馬占山軍の騙し討ちに遭って大損害を被った。それ故、事態が拡大した全責任は先方にあるので、この際、断固として黒龍江省軍を懲らしめるべきである--ということだ。
参謀たちが特に危惧したのは華人社会に惹起する心理的な影響で、ここで退いたら却って問題は大きくなるとの懸念であった。
「軍がいやしくも消極に流れ(皇軍の)“威武”を汚すようなことがあれば、それこそ“九仭の功を一簣に欠く※1”の例えとなり、『日本軍は弱小の民国軍なら強い態度に出てくるものの、ひとたびその背後にソ連ロシアの影を見て取るや、ただ指をくわえて傍観するだけとなる』との印象を与えかねない。そうなれば徒に軽侮の念を増長し、今後の満蒙経略に及ぼす影響は大きい」
だからこの場の判断は現場に一任して欲しいと結んだ。
「願わくば、本職以下関東軍将卒の微衷※2に信頼し、黒龍軍に対する作戦は軍機宜の処置に一任せられたく、特に意見を具申す」
※1九仭の功を一簣に欠く=「簣」はもっこの意。高い山を築くのに、最後のもっこ一杯分が足りずに完成しない。長い間の努力も最後の詰めを欠いて失敗に終わる例え。
※2微衷=本心。
話は脱線するが、日本国憲法の前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し云々」とあるのを以て、「日本語がおかしい」とか「“て・に・お・は”がなってない」とけなす向きがある。だが上に引用したように、戦前の公文書にはよく見られる表現であって、決して白洲次郎が間違えたのではない点、特に指摘しておく。
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