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第八章理事会前夜
第八章第二十九節(権能)
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二十九
幣原喜重郎外相の論法には、いかにも勿体ぶって恩着せがましく、最後にちょっとだけ譲歩してやろうとの意図が透けて見えた。だから視察員の任務にも細々と注文を付けてきた。
「大陸各地における対日不法行為ないし一般的生命財産の安全を保障する当事者能力があるか、また、現にその安全は図られようとしているか、国民党政府には日本および諸外国との条約を履行する能力があるか、また、現に履行されつつあるのか」
これらを現地で確かめるための視察であるならば、話に応じる用意があるという。
筆者ももったいぶってここまで話を引き伸ばしてきたが、この一節は極めて重要なので、ぜひとも記憶に留めていただきたい。
これこそが、後に「リットン調査団」の名で知られることになる、聯盟派遣の視察団に付与された真の使命である。彼らには決して、「満洲事変が日本の侵略であった」とか「なかった」とかを審判する“権能”など付与されていないし、実際『リットン報告書』のどこを探しても、そのような文章は見当たらない。
ただ「調査団の結論」という項目において一文、「同夜(九月十九日)における日本軍の軍事行動は正当な自衛手段と認めることができない」と差し挟んだだけである。しかもその直後に続けて、「もっともこれによって調査団は、現地の日本軍将校たちが自衛のための行動だと信じていたという仮説を否定しようというのではない」と結局は玉虫色の結論でお茶を濁したのであった。
『報告書』が公表されるや、新聞はその要点を逐次報じた。外務省は公表と同時に三十六人の翻訳官を省内四つの翻訳室と、推敲室にカンヅメにして一晩で全訳し、なおかつ『要約版』を作成した。
大毎と東日は十月二日付の号外に、朝日系は翌三日朝刊にそれぞれ二個面を使って『要約版』の全文を掲載した。これと並行して報告書全文を載せた冊子や出版物も多数発刊されたから、かない多くの国民が『リットン報告書』を目にしたものと思われる。
で、あるから『報告書』に対する国民の反応も、かなり多くの人々を母数とした、まさしく“輿論”であったと見てよかろう。その輿論は押しなべて、「そんな聯盟なんぞ脱退してしまえ」の大合唱であった。かくて日本は、一路脱退へと突き進むことになるのであった。
歴史家が何をどこでどう拡大解釈したかは知らないが、あまりの“とんでも話”が横行し過ぎている。
度たび脱線を繰り返してきた。本題へ戻る。
杉村を英・仏へと出張させたドラモンド総長は、極東でも情報部のウォルタースを東京へ赴かせ日本政府と意見交換するよう命じた。
そのウォルタースから十五日、総長へ宛てて報告書が届く。
「十月二十四日の決議は却って(日本の)輿論が軍部を一層支持する結果を 招いた」
日本の軍部や政府中央における強硬論は、押し並べて国内輿論の反映である。日本に輿論があり、中華民国に輿論があり、ヨーロッパ、アメリカにも輿論がある。しかもそれぞれがみな異なる方を向いて叫びを上げている。
十一月理事会を前に、聯盟の調整は困難を強いられた。
同じ頃、ドーバー海峡を渡る船の上にはサイモン外相と松平の二人がいた。
昨日の会談では頼もしく日本への支援を約束してくれた外相だったが、そのトーンは明らかに暗かった。そして後ろめたそうにこう言った。
「来たる理事会ではできるだけ日本の立場を考慮したいと考えていますが、松平大使もご承知の通り、イギリスにおける『聯盟協会』は政党や宗教を超えて各階級の人をも網羅しており、この種の団体としては国内最大の勢力です。英国のいかなる政府といえどもこれを無視することはできません。英国には聯盟を非難する論調の新聞もありますが、輿論の大部分は聯盟を支持しており、自分としても理事会の立場を考慮しない訳には参りません」
「もちろん、その点は承知しています。しかし日本の国論も相当強硬になっており、先月の理事会のように期限を設けて撤兵を求めるようなことになれば、到底これを承諾はでき兼ねます……」
二人は目を合わせず、海へ向かって話しかけるように語り合った。空には鈍色の雲が低く垂れこめている。船に連れ添うかたちでカモメが上へ下へと飛び回っていた。
幣原喜重郎外相の論法には、いかにも勿体ぶって恩着せがましく、最後にちょっとだけ譲歩してやろうとの意図が透けて見えた。だから視察員の任務にも細々と注文を付けてきた。
「大陸各地における対日不法行為ないし一般的生命財産の安全を保障する当事者能力があるか、また、現にその安全は図られようとしているか、国民党政府には日本および諸外国との条約を履行する能力があるか、また、現に履行されつつあるのか」
これらを現地で確かめるための視察であるならば、話に応じる用意があるという。
筆者ももったいぶってここまで話を引き伸ばしてきたが、この一節は極めて重要なので、ぜひとも記憶に留めていただきたい。
これこそが、後に「リットン調査団」の名で知られることになる、聯盟派遣の視察団に付与された真の使命である。彼らには決して、「満洲事変が日本の侵略であった」とか「なかった」とかを審判する“権能”など付与されていないし、実際『リットン報告書』のどこを探しても、そのような文章は見当たらない。
ただ「調査団の結論」という項目において一文、「同夜(九月十九日)における日本軍の軍事行動は正当な自衛手段と認めることができない」と差し挟んだだけである。しかもその直後に続けて、「もっともこれによって調査団は、現地の日本軍将校たちが自衛のための行動だと信じていたという仮説を否定しようというのではない」と結局は玉虫色の結論でお茶を濁したのであった。
『報告書』が公表されるや、新聞はその要点を逐次報じた。外務省は公表と同時に三十六人の翻訳官を省内四つの翻訳室と、推敲室にカンヅメにして一晩で全訳し、なおかつ『要約版』を作成した。
大毎と東日は十月二日付の号外に、朝日系は翌三日朝刊にそれぞれ二個面を使って『要約版』の全文を掲載した。これと並行して報告書全文を載せた冊子や出版物も多数発刊されたから、かない多くの国民が『リットン報告書』を目にしたものと思われる。
で、あるから『報告書』に対する国民の反応も、かなり多くの人々を母数とした、まさしく“輿論”であったと見てよかろう。その輿論は押しなべて、「そんな聯盟なんぞ脱退してしまえ」の大合唱であった。かくて日本は、一路脱退へと突き進むことになるのであった。
歴史家が何をどこでどう拡大解釈したかは知らないが、あまりの“とんでも話”が横行し過ぎている。
度たび脱線を繰り返してきた。本題へ戻る。
杉村を英・仏へと出張させたドラモンド総長は、極東でも情報部のウォルタースを東京へ赴かせ日本政府と意見交換するよう命じた。
そのウォルタースから十五日、総長へ宛てて報告書が届く。
「十月二十四日の決議は却って(日本の)輿論が軍部を一層支持する結果を 招いた」
日本の軍部や政府中央における強硬論は、押し並べて国内輿論の反映である。日本に輿論があり、中華民国に輿論があり、ヨーロッパ、アメリカにも輿論がある。しかもそれぞれがみな異なる方を向いて叫びを上げている。
十一月理事会を前に、聯盟の調整は困難を強いられた。
同じ頃、ドーバー海峡を渡る船の上にはサイモン外相と松平の二人がいた。
昨日の会談では頼もしく日本への支援を約束してくれた外相だったが、そのトーンは明らかに暗かった。そして後ろめたそうにこう言った。
「来たる理事会ではできるだけ日本の立場を考慮したいと考えていますが、松平大使もご承知の通り、イギリスにおける『聯盟協会』は政党や宗教を超えて各階級の人をも網羅しており、この種の団体としては国内最大の勢力です。英国のいかなる政府といえどもこれを無視することはできません。英国には聯盟を非難する論調の新聞もありますが、輿論の大部分は聯盟を支持しており、自分としても理事会の立場を考慮しない訳には参りません」
「もちろん、その点は承知しています。しかし日本の国論も相当強硬になっており、先月の理事会のように期限を設けて撤兵を求めるようなことになれば、到底これを承諾はでき兼ねます……」
二人は目を合わせず、海へ向かって話しかけるように語り合った。空には鈍色の雲が低く垂れこめている。船に連れ添うかたちでカモメが上へ下へと飛び回っていた。
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