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第八章理事会前夜

第八章第二十六節(鼎談)

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                二十六

 昭和十九年に少将へ昇任した片倉衷かたくらただしは、満洲事変を後世へ残すべく『満洲事変史』を執筆した。残念ながらそのほとんどが敗戦時に失われたものの、ちょうど十一月頃の状況を著した『第五巻』だけが防衛省戦史研究センターに所蔵されている。ここからサイモン外相が懸念を示した「天津の暴動」を引用すると、こうなる。

 「支那駐屯(天津)軍より左記通報を受領せり。
 一、十一月一日午後十時、天津支那街に暴動起こり、支那街は目下混乱状態に陥れり。
 二、我が在天津部隊は直ちに警備を下令し、日本租界外周の線を占領しって租界を確保し萬一の事態に善処するの部署に就きつつあり。
 三、軍の北平(北京)、山海関、泰皇島たいこうとう塘沽タンクーの各地駐屯部隊も現在の兵力をって所要の警備を実施し、居留民および権益擁護の部署にくことを命令するとともに、全皇軍の方針を開示し内争の渦中に投じざる(中略)事態の進展にりては列国軍を指導し鉄道警備を行うはず
 四、(関東)軍は天津兵変をって支那の内政上の闘争と看做みなし、軍は全然これに干渉せず云々」

 松平はかぶりを振って「その件では本国からの情報にも接していますが、まったくの事実無根と言わざるを得ません。華人は常にその類のデマを流すものなのです」と胸を張った。
 片や事変当時はまだ大尉だった同じ人物の手による、いわゆる『片倉日誌』の十一月十一日の記述にはこうある。

 「九日付土肥原の『天一ノ一七電』にれば、天津擾乱てんしんじょうらんの謀略は、事前に多少の手違いがあったことと楊元吉の天津到着が遅れたこと、使用し得る経費が不足したために同時発動とならず、結果的に単なる擾乱かくらんにとどまり挫折したという」

 つまり、「天津事件」は幽閉中の宣統帝溥儀を満洲へ連れ出すための、日本側の謀略だったことを示唆している。もっとも、片倉の『日誌』からも読み取れるように、謀略は関東軍とは関係なく土肥原賢二特務機関長と天津軍が単独で起こしたものであった。
 ともあれ、サイモン=松平の会談が終わったので別室に控えていたドーズ米大使が合流した。
 ドーズ大使は鼎談ていだんに先立ち、二人へスチムソン長官の訓電を読み聞かせた。

 「日本人の生命財産の安全を確保するためには、撤兵前に日華間の直接交渉を開始すべきで、聯盟からの監視員はあってもなくても一向に差し支えない」

 この頃のスチムソン長官は極めて日本に好意的だった。すでに何度か『覚書』を公表して日本の動きをけん制し、日本の新聞はその都度パブロフの犬のように長官へ牙をむいたが、米国務省は総じて満洲の事態に関して静観の構えを貫いた。
 この日の訓電も、『五大綱』の交渉がまとまるならばおんの字で、交渉が長引くようならとにかく撤兵を断行し、条約の効力に関する問題は別途、委員会を設けて継続協議すべきだとの見解を示していた。

「確かに右から左へと日本軍に撤兵を迫るのは無理筋な話だが、かといって条約の効力を確認するまでは撤兵しないというのも極端ではないでしょうか」
 サイモン外相はスチムソン長官の腹案ふくあんをそのまま受ける訳ではないものの、「大体においてはこの線が妥当かと思われる」と折り合った。
「日本は聯盟の創立以来、もっとも忠実にこの機関を支持してこられたのですから、この際も聯盟の立場を少しお考えいただいてはどうでしょうか?」
 サイモンにしてもこの辺で話を落ち着けたかったに違いない。ところが松平の方がこれに同意しなかった。
 日本政府の方針は、あくまで『五大綱』すべての合意を見なければ撤兵はできないというものだ。話は再び振り出しに戻った。
 すでに三人の懇談は一時間を過ぎ、時間切れとなった。
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