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第八章理事会前夜
第八章第二十四節(ドーズ大使)
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二十四
「昨日スチムソン長官から電話がありまして、次回の理事会に合わせてパリへ出張するよう指示されました」
「ほう、ご出席なさるのですか」
「いやいや、会議そのものに出席するのではなく、あくまで会議の様子を見つつ、各国代表と関係を深めるつもりです」
ロンドンの松平大使は十一日、アメリカのドーズ駐英大使とこんな会話を交わした。
オハイオの片田舎で生まれたチャールズ・ドーズは、ネブラスカで長年弁護士業を営んだ後、カルビン・クーリッジ大統領の政権下で副大統領となった、米国政界のドンである。しかもフランスのルール占領に起因して起こった、敗戦後のドイツ経済の「ハイパーインフレ」を立て直すべく、戦時賠償の延期や減額などを求める「ドーズプラン」を立案。同国経済を見事に復興させた功績が称えられ、一九二五年度の「ノーベル平和賞」に輝いた世界的著名人でもあった。
そんなドーズ大使が旧知の者の如く打ち解けた様子で話しかけてきた。
「以前にもお話したと思いますが、中華大陸に長く暮らしたフランスのフリュリオー大使から、華人には心底から信用が置けないことや民国には実質的に政権を担える政府が存在しないこと、日本の態度は極めて正しいことなど--、篤と聞かされています」
ドーズ大使はこの時六十七歳。ブリアン議長といいレディング外相といい、実にそうそうたる顔ぶれが揃ったものだ。
理事会は撤兵問題に神経を尖らすが、「条約尊重」の点では日本側と歩調が合っている。
片や米国は撤兵問題でこそ同情的な態度で接してくれるものの、「条約問題」には極めて神経質で、日本がこの機会に新たな「条約上の権利」を民国に求めはしないかとピリピリしている。
表面とっつきやすく、ひとたび手を突っ込めば厄介な相手--。合衆国政府はそんな立ち位置にあったが、ドーズ大使は微塵も底意を窺わせなかった。
「今回の嫩江事件は日本の経済上の立場からすれば尤もなことで、これにブリアンがかれこれ難癖をつけるのは明らかに誤りです。まして日本の“大国”としての対面も考慮せず、『期限付き撤兵』を迫るなど、あまりにやり過ぎと言わざるを得ません。この点、パリへ行ったらブリアン議長ともよく話し合うつもりです」
何と頼もしい--。まったく“人たらし”とはこのことか。
聯盟幹部たちが容易に認めない日本側の主張を、世界的権威のあるこの人物が裏書きしてくれたのだから、悪い気はしない。松平はすぐさまドーズの掌に載っかった。
「他方、日本側も聯盟の立場を顧みる必要があるのではないでしょうか」
寄り添う態度を見せつつ、チクリと本題を差し入れる。この手が通じる相手どうしでのみ、外交は成立する。
「日本側に正義があるのはごもっともですが、世界の輿論にそれを知らしめるためには、ある種の“ジェスチャー”を示す必要もあります」
ジェスチャー--。
思いもよらぬ言葉に、松平はやや面食らった。
「はて、大使はどのようなことをお考えで?」
松平もそこそこのキャリアを持つ外交官だが、このときばかりはまるで子どものような屈託なさで尋ねた。
「例えば日本人の生命財産の保護の点でやむを得ない地点を除き撤兵を始めるとか、日華交渉に際して山東問題のときと同様、他国の『オブザーバー』を列席させる--。などはいかがですかな」
同じセリフを聯盟理事会の幹部に聞かされたなら、即座に反発していたことだろう。だが松平は目の前の“重鎮”にすっかり敬服して、“緊急やむを得ない地域”として「洮昴線方面」と「吉林省の柳河方面」を挙げ、それ以外の地域からはすでに半数の兵が退いた。残るは千名に達しないと告げた。
「『五大綱協定』はあくまで両国の民心を和らげるためのものでして、決して日本が腹のうちに何らかの野心を隠しているものではありません」
松平は先ずもって、米国側が最も神経を尖らす「条約問題」に関するドーズ大使の懸念を払拭しようとした。彼にとってはまさにそれこそが“ジェスチャー”なのだが、果たして伝わったかどうか……。いま一つ自信を持てなかった。
「民国側は満洲における条約の無効を訴えますが、如何なる状況の下に締結されたと言え、すべての条約は正式に成立した以上、一方の当事者の意思で勝手に破棄されていいものではありません」
松平は奇しくも、つい先だって栗山がマシグリへ放ったのと同じセリフを口にした。ドーズはそれに無言のまま笑顔で返し、明日、英国のサイモン外相と会談して、それからフランスへ渡ってブリアンを説得するつもりだと言って会談を終えた。
「昨日スチムソン長官から電話がありまして、次回の理事会に合わせてパリへ出張するよう指示されました」
「ほう、ご出席なさるのですか」
「いやいや、会議そのものに出席するのではなく、あくまで会議の様子を見つつ、各国代表と関係を深めるつもりです」
ロンドンの松平大使は十一日、アメリカのドーズ駐英大使とこんな会話を交わした。
オハイオの片田舎で生まれたチャールズ・ドーズは、ネブラスカで長年弁護士業を営んだ後、カルビン・クーリッジ大統領の政権下で副大統領となった、米国政界のドンである。しかもフランスのルール占領に起因して起こった、敗戦後のドイツ経済の「ハイパーインフレ」を立て直すべく、戦時賠償の延期や減額などを求める「ドーズプラン」を立案。同国経済を見事に復興させた功績が称えられ、一九二五年度の「ノーベル平和賞」に輝いた世界的著名人でもあった。
そんなドーズ大使が旧知の者の如く打ち解けた様子で話しかけてきた。
「以前にもお話したと思いますが、中華大陸に長く暮らしたフランスのフリュリオー大使から、華人には心底から信用が置けないことや民国には実質的に政権を担える政府が存在しないこと、日本の態度は極めて正しいことなど--、篤と聞かされています」
ドーズ大使はこの時六十七歳。ブリアン議長といいレディング外相といい、実にそうそうたる顔ぶれが揃ったものだ。
理事会は撤兵問題に神経を尖らすが、「条約尊重」の点では日本側と歩調が合っている。
片や米国は撤兵問題でこそ同情的な態度で接してくれるものの、「条約問題」には極めて神経質で、日本がこの機会に新たな「条約上の権利」を民国に求めはしないかとピリピリしている。
表面とっつきやすく、ひとたび手を突っ込めば厄介な相手--。合衆国政府はそんな立ち位置にあったが、ドーズ大使は微塵も底意を窺わせなかった。
「今回の嫩江事件は日本の経済上の立場からすれば尤もなことで、これにブリアンがかれこれ難癖をつけるのは明らかに誤りです。まして日本の“大国”としての対面も考慮せず、『期限付き撤兵』を迫るなど、あまりにやり過ぎと言わざるを得ません。この点、パリへ行ったらブリアン議長ともよく話し合うつもりです」
何と頼もしい--。まったく“人たらし”とはこのことか。
聯盟幹部たちが容易に認めない日本側の主張を、世界的権威のあるこの人物が裏書きしてくれたのだから、悪い気はしない。松平はすぐさまドーズの掌に載っかった。
「他方、日本側も聯盟の立場を顧みる必要があるのではないでしょうか」
寄り添う態度を見せつつ、チクリと本題を差し入れる。この手が通じる相手どうしでのみ、外交は成立する。
「日本側に正義があるのはごもっともですが、世界の輿論にそれを知らしめるためには、ある種の“ジェスチャー”を示す必要もあります」
ジェスチャー--。
思いもよらぬ言葉に、松平はやや面食らった。
「はて、大使はどのようなことをお考えで?」
松平もそこそこのキャリアを持つ外交官だが、このときばかりはまるで子どものような屈託なさで尋ねた。
「例えば日本人の生命財産の保護の点でやむを得ない地点を除き撤兵を始めるとか、日華交渉に際して山東問題のときと同様、他国の『オブザーバー』を列席させる--。などはいかがですかな」
同じセリフを聯盟理事会の幹部に聞かされたなら、即座に反発していたことだろう。だが松平は目の前の“重鎮”にすっかり敬服して、“緊急やむを得ない地域”として「洮昴線方面」と「吉林省の柳河方面」を挙げ、それ以外の地域からはすでに半数の兵が退いた。残るは千名に達しないと告げた。
「『五大綱協定』はあくまで両国の民心を和らげるためのものでして、決して日本が腹のうちに何らかの野心を隠しているものではありません」
松平は先ずもって、米国側が最も神経を尖らす「条約問題」に関するドーズ大使の懸念を払拭しようとした。彼にとってはまさにそれこそが“ジェスチャー”なのだが、果たして伝わったかどうか……。いま一つ自信を持てなかった。
「民国側は満洲における条約の無効を訴えますが、如何なる状況の下に締結されたと言え、すべての条約は正式に成立した以上、一方の当事者の意思で勝手に破棄されていいものではありません」
松平は奇しくも、つい先だって栗山がマシグリへ放ったのと同じセリフを口にした。ドーズはそれに無言のまま笑顔で返し、明日、英国のサイモン外相と会談して、それからフランスへ渡ってブリアンを説得するつもりだと言って会談を終えた。
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