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第八章理事会前夜
第八章第十八節(能天気)
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十八
「ハァ~、これはまたずいぶんと遠くまで行ったものですなぁ」
壁に貼られた地図を見ながら、ブリアン外相は嘆息を漏らした。嫩江鉄橋を巡って勃発した戦闘は、ふたたびヨーロッパの輿論をかき乱した。この日の老外相も、普段の愛嬌など微塵ものぞかせなかった。
「日本政府は事態を拡大させないとおっしゃるが、橋の修繕と称してこんな遠方にまで出兵させたのでは……、何と申すも事態の拡大と見ずには参りますまい」
ブリアン外相は渋い顔をつくって芳澤を見やった。
今の季節は満洲の奥地から特産品の大豆が出荷される時期にあたり、鉄橋の破壊は同地に暮らす人々には死活問題となる。また、出兵した日本軍はすでに六日正午、対岸の大興を占領したところで進軍を停止した。鉄橋の修繕にはおおよそ二週間を要するが、完成後は直ちに撤兵する--。
芳澤はこれまで幾度となく日本軍の行動を正当化する論を張ってきたが、いよいよその論拠も危うくなっていくのを感じざるをえなかった。
案の定、芳澤の弁明にもかかわらずブリアン外相は「納得し兼ねる」との表情を崩さなかった。
「とにかく、こうした戦闘行為が繰り返されている以上は『戦争』と言わずとも『戦争状態』にあると言わざるを得ません。本職が提示した案にこだわるものではありませんので、日本側から事態を平和的に解決するご提案いただけるならば、喜んでお受けしましょう」
議長は今や口ぐせともなった「日本側の提案」を求めてきた。
「議長のご厚情には深く感謝いたしますが、日本としては『五大綱』協定の締結を見ずして撤兵することは、どうしてもいたし兼ねます。本国から重ねてそのように訓令を受けている次第です」
ブリアン外相は「ふぅ~っ」と大きなため息をつきながら、何とも処置なしといった風に力なく首を振った。
「いつ終わるとも知れない交渉がまとまらない限りは撤兵しないというのでは、とても世間の同情など得られないと思いますがね……」
マシグリやカドガン次官は先だって、杉村公使へ「条約は一つひとつを具体的に詰めていくべき」と示唆した。日本政府も元々はこの考えであった。
“実効”を上げるには、条約をひとつひとつ“ひざ詰め”で談判せねばならないが、それには時間がかかる。芳澤からの具申もあって幣原外相も、交渉の相手を南京政府とせざるを得ないと悟ったようだ。この頃にはそれを前提に、「交渉の対象には日華間のあらゆる既存条約を含むべきだが、内容そのものの細部へは触れずに、全体を包括する根本原則を再確認する」と修正を加えてきた。
それ故芳澤は、「外相がご懸念されるほどの時間はかからないでしょう」と呑気を装った。
「小官の考えるところでは、だいたい三、四週間くらいを見ておけば良いのではないかと思われます」
(この局面でよくもぬけぬけと!)
恐らくはそれがブリアン外相の本音だっただろう。そしていら立ち紛れの表情でこう重ねた。
「目下、世界は深刻な不況の中にあります。このような時期に、かかる戦争状態が起こったこと自体、遺憾とせざるを得ません。ことに黒龍江省はソ連邦と国境を接しているのですから、そちら方面の動きにも目を向けなければなりません」
「その点はご心配には及びますまい……」
目いっぱいの虚勢を張って「いかにも取り越し苦労」とばかりに返してきた芳澤のもの言いに、老外相は怒りを通り越してもはや「呆れた」という顔になった。
「本職は必ずしもそのように安心はでき兼ねますがね……」
ブリアン外相へは努めて“能天気”を装って見せたものの、芳澤だって内心では迫りくる“破局”に危機感を募らせていた。
十日、東京へ宛てて再度請訓を送る。
「事態に何らの改善も見られないばかりか、却って悪化しつつある現状の下で、これまでと同様の方針に従って理事会を説得するなど到底成功の見込みが立たない」
次回の理事会まであと十日を切ったというのに、事態は一向改善の兆しを見せない。
聯盟との関係は日に日に危うくなっていく。この問題の処理を誤れば、日本ばかりか「国際聯盟」そのものの存立すら危うくなり兼ねない。過去二十年にわたり築き上げてきた努力の結晶が、この一事によってもろくも崩れ去ろうとするのを、セシル卿やブリアンが黙って見過ごすとも思われない。
その意味においても次回の理事会で聯盟側は、これまで以上に強硬な態度を示してくると予想された。そうなれば民国側はますます態度を固くして、直接交渉への望みもますます遠ざかる……。
「ハァ~、これはまたずいぶんと遠くまで行ったものですなぁ」
壁に貼られた地図を見ながら、ブリアン外相は嘆息を漏らした。嫩江鉄橋を巡って勃発した戦闘は、ふたたびヨーロッパの輿論をかき乱した。この日の老外相も、普段の愛嬌など微塵ものぞかせなかった。
「日本政府は事態を拡大させないとおっしゃるが、橋の修繕と称してこんな遠方にまで出兵させたのでは……、何と申すも事態の拡大と見ずには参りますまい」
ブリアン外相は渋い顔をつくって芳澤を見やった。
今の季節は満洲の奥地から特産品の大豆が出荷される時期にあたり、鉄橋の破壊は同地に暮らす人々には死活問題となる。また、出兵した日本軍はすでに六日正午、対岸の大興を占領したところで進軍を停止した。鉄橋の修繕にはおおよそ二週間を要するが、完成後は直ちに撤兵する--。
芳澤はこれまで幾度となく日本軍の行動を正当化する論を張ってきたが、いよいよその論拠も危うくなっていくのを感じざるをえなかった。
案の定、芳澤の弁明にもかかわらずブリアン外相は「納得し兼ねる」との表情を崩さなかった。
「とにかく、こうした戦闘行為が繰り返されている以上は『戦争』と言わずとも『戦争状態』にあると言わざるを得ません。本職が提示した案にこだわるものではありませんので、日本側から事態を平和的に解決するご提案いただけるならば、喜んでお受けしましょう」
議長は今や口ぐせともなった「日本側の提案」を求めてきた。
「議長のご厚情には深く感謝いたしますが、日本としては『五大綱』協定の締結を見ずして撤兵することは、どうしてもいたし兼ねます。本国から重ねてそのように訓令を受けている次第です」
ブリアン外相は「ふぅ~っ」と大きなため息をつきながら、何とも処置なしといった風に力なく首を振った。
「いつ終わるとも知れない交渉がまとまらない限りは撤兵しないというのでは、とても世間の同情など得られないと思いますがね……」
マシグリやカドガン次官は先だって、杉村公使へ「条約は一つひとつを具体的に詰めていくべき」と示唆した。日本政府も元々はこの考えであった。
“実効”を上げるには、条約をひとつひとつ“ひざ詰め”で談判せねばならないが、それには時間がかかる。芳澤からの具申もあって幣原外相も、交渉の相手を南京政府とせざるを得ないと悟ったようだ。この頃にはそれを前提に、「交渉の対象には日華間のあらゆる既存条約を含むべきだが、内容そのものの細部へは触れずに、全体を包括する根本原則を再確認する」と修正を加えてきた。
それ故芳澤は、「外相がご懸念されるほどの時間はかからないでしょう」と呑気を装った。
「小官の考えるところでは、だいたい三、四週間くらいを見ておけば良いのではないかと思われます」
(この局面でよくもぬけぬけと!)
恐らくはそれがブリアン外相の本音だっただろう。そしていら立ち紛れの表情でこう重ねた。
「目下、世界は深刻な不況の中にあります。このような時期に、かかる戦争状態が起こったこと自体、遺憾とせざるを得ません。ことに黒龍江省はソ連邦と国境を接しているのですから、そちら方面の動きにも目を向けなければなりません」
「その点はご心配には及びますまい……」
目いっぱいの虚勢を張って「いかにも取り越し苦労」とばかりに返してきた芳澤のもの言いに、老外相は怒りを通り越してもはや「呆れた」という顔になった。
「本職は必ずしもそのように安心はでき兼ねますがね……」
ブリアン外相へは努めて“能天気”を装って見せたものの、芳澤だって内心では迫りくる“破局”に危機感を募らせていた。
十日、東京へ宛てて再度請訓を送る。
「事態に何らの改善も見られないばかりか、却って悪化しつつある現状の下で、これまでと同様の方針に従って理事会を説得するなど到底成功の見込みが立たない」
次回の理事会まであと十日を切ったというのに、事態は一向改善の兆しを見せない。
聯盟との関係は日に日に危うくなっていく。この問題の処理を誤れば、日本ばかりか「国際聯盟」そのものの存立すら危うくなり兼ねない。過去二十年にわたり築き上げてきた努力の結晶が、この一事によってもろくも崩れ去ろうとするのを、セシル卿やブリアンが黙って見過ごすとも思われない。
その意味においても次回の理事会で聯盟側は、これまで以上に強硬な態度を示してくると予想された。そうなれば民国側はますます態度を固くして、直接交渉への望みもますます遠ざかる……。
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