上 下
158 / 466
第八章理事会前夜

第八章第十八節(能天気)

しおりを挟む
                十八

「ハァ~、これはまたずいぶんと遠くまで行ったものですなぁ」
 壁にられた地図を見ながら、ブリアン外相は嘆息ためいきを漏らした。嫩江ノンコウ鉄橋を巡って勃発した戦闘は、ふたたびヨーロッパの輿論をかき乱した。この日の老外相も、普段の愛嬌など微塵みじんものぞかせなかった。

「日本政府は事態を拡大させないとおっしゃるが、橋の修繕としょうしてこんな遠方にまで出兵させたのでは……、何と申すも事態の拡大と見ずにはまいりますまい」
 ブリアン外相は渋い顔をつくって芳澤を見やった。
 今の季節は満洲の奥地から特産品の大豆が出荷される時期にあたり、鉄橋の破壊は同地に暮らす人々には死活問題となる。また、出兵した日本軍はすでに六日正午、対岸の大興だいこうを占領したところで進軍を停止した。鉄橋の修繕にはおおよそ二週間を要するが、完成後はただちに撤兵する--。
 芳澤はこれまで幾度となく日本軍の行動を正当化する論を張ってきたが、いよいよその論拠も危うくなっていくのを感じざるをえなかった。

 案の定、芳澤の弁明にもかかわらずブリアン外相は「納得し兼ねる」との表情を崩さなかった。
「とにかく、こうした戦闘行為が繰り返されている以上は『戦争』と言わずとも『戦争状態』にあると言わざるを得ません。本職が提示した案にこだわるものではありませんので、日本側から事態を平和的に解決するご提案いただけるならば、喜んでお受けしましょう」
 議長は今や口ぐせともなった「日本側の提案」を求めてきた。
「議長のご厚情こうじょうには深く感謝いたしますが、日本としては『五大綱』協定の締結を見ずして撤兵することは、どうしてもいたし兼ねます。本国から重ねてそのように訓令を受けている次第です」
 ブリアン外相は「ふぅ~っ」と大きなため息をつきながら、何とも処置なしといった風に力なく首を振った。

「いつ終わるとも知れない交渉がまとまらない限りは撤兵しないというのでは、とても世間の同情など得られないと思いますがね……」
 マシグリやカドガン次官は先だって、杉村公使へ「条約は一つひとつを具体的に詰めていくべき」と示唆した。日本政府も元々はこの考えであった。
 “実効”を上げるには、条約をひとつひとつ“ひざ詰め”で談判せねばならないが、それには時間がかかる。芳澤からの具申もあって幣原外相も、交渉の相手を南京政府とせざるを得ないと悟ったようだ。この頃にはそれを前提に、「交渉の対象には日華間のあらゆる既存条約を含むべきだが、内容そのものの細部へは触れずに、全体を包括する根本原則を再確認する」と修正を加えてきた。

 それ故芳澤は、「外相がご懸念されるほどの時間はかからないでしょう」と呑気のんきを装った。
「小官の考えるところでは、だいたい三、四週間くらいを見ておけば良いのではないかと思われます」 
 (この局面でよくもぬけぬけと!)
 恐らくはそれがブリアン外相の本音だっただろう。そしていら立ちまぎれの表情でこう重ねた。
「目下、世界は深刻な不況の中にあります。このような時期に、かかる戦争状態が起こったこと自体、遺憾とせざるを得ません。ことに黒龍江こくりゅうこう省はソ連邦と国境を接しているのですから、そちら方面の動きにも目を向けなければなりません」
「その点はご心配には及びますまい……」
 目いっぱいの虚勢を張って「いかにも取り越し苦労」とばかりに返してきた芳澤のもの言いに、老外相は怒りを通り越してもはや「呆れた」という顔になった。
「本職は必ずしもそのように安心はでき兼ねますがね……」

 ブリアン外相へは努めて“能天気”を装って見せたものの、芳澤だって内心では迫りくる“破局”に危機感を募らせていた。
 十日、東京へ宛てて再度請訓を送る。

 「事態に何らの改善も見られないばかりか、却って悪化しつつある現状の下で、これまでと同様の方針に従って理事会を説得するなど到底成功の見込みが立たない」

 次回の理事会まであと十日を切ったというのに、事態は一向改善のきざしを見せない。
 聯盟との関係は日に日に危うくなっていく。この問題の処理を誤れば、日本ばかりか「国際聯盟」そのものの存立すら危うくなり兼ねない。過去二十年にわたり築き上げてきた努力の結晶が、この一事によってもろくも崩れ去ろうとするのを、セシル卿やブリアンが黙って見過ごすとも思われない。
 その意味においても次回の理事会で聯盟側は、これまで以上に強硬な態度を示してくると予想された。そうなれば民国側はますます態度を固くして、直接交渉への望みもますます遠ざかる……。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

鈍牛 

綿涙粉緒
歴史・時代
     浅草一体を取り仕切る目明かし大親分、藤五郎。  町内の民草はもちろん、十手持ちの役人ですら道を開けて頭をさげようかという男だ。    そんな男の二つ名は、鈍牛。    これは、鈍く光る角をたたえた、眼光鋭き牛の物語である。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

局中法度

夢酔藤山
歴史・時代
局中法度は絶対の掟。 士道に叛く行ないの者が負う責め。 鉄の掟も、バレなきゃいいだろうという甘い考えを持つ者には意味を為さない。 新選組は甘えを決して見逃さぬというのに……。

大日本帝国、アラスカを購入して無双する

雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。 大日本帝国VS全世界、ここに開幕! ※架空の日本史・世界史です。 ※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。 ※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。

処理中です...