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第八章理事会前夜

第八章第十七節(田中上奏文)

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                 十七
 
 ところでこの日、すなわち十一月二日、ロンドンに来ていた沢田の許へ一本の電話が掛かってくる。相手は『モーニングポスト』紙の外信部記者を名乗った。

「日本の大陸政策に関して、かつての田中儀一たなかぎいち首相から天皇へある種の『計画』が提示されたとの情報がありますが、それは本当ですか? ここにその写しがあるのですが……」
 記者の意図するものがいわゆる『田中上奏文たなかじょうそうぶん』であることは、容易に察せられた。この文書がいつどこから発せられたのかはいまだ謎のままだが、昭和二(一九二七)年に当時の首相田中儀一たなかぎいちが「上奏」したということになっている。

 大まかな内容は、大日本帝国が中華大陸を支配するには満蒙の“征服せいふく”が不可欠で、そのためには民国から同地を切り離し、“傀儡かいらい政権”を建てて日本の意のままにあやつるべきだというものである。
 だがその文書中、計画を練る会議の席にはすでに“死亡”していたはずの山縣有朋やまがたありともが臨席していたり、上奏が本来この種の話を取り次ぐべき「内大臣ないだいじん」ではなく、皇族こうぞくの日常の世話を担当する「宮内大臣くないだいじん」を経由して行われたなど、一見して“誤り”と分かる記述が散見されたことから、早々に「これはにせ文書である」と見破られた。

 それでも同年十二月、南京の月刊誌『時事月報』が明治天皇の『遺訓いくん』なる記事を掲載し、日本の対外政策は「第一期」において台湾を|《りゃくだつ》掠奪し、「第二期」には朝鮮を支配、「第三期」で満蒙を征服する--と論じた。そして記事は『田中上奏文』を引用しつつ、「今がその第三期にあたる」と結んだ。
 話がこと天皇にかかわる以上、日本政府も黙ってはおけず様々な場面を通じてくだんの「上奏文」なるものは“虚偽”であると周知した。
 民国政府内でも文書の信ぴょう性は疑われ、少なくとも公式の場面にこれを持ち出す政治家はいなかった。
 それにもかかわらずこの年、上海の英語雑誌『チャイナ・クリティーク』が「タナカ・メモリアル」と題して「上奏文」を掲載したのを皮切りに、まったく同じ内容の小冊子が欧米諸国や東南アジアへと出回った。さらに国際コミンテルンの機関誌『コミュニスト・インターナショナル』が全文を掲載するや、ロシア語、ドイツ語、フランス語版も現れて、あっという間に「既成事実化」されてしまった。

 さて電話の主である。
 恐らく記者が手にしたのも、そうした小冊子のひとつであろう。沢田は記者に文書は事実無根である旨を告げ、「一応内容を確かめるから、写しを送って欲しい」と告げた。そうやって記者から文書の写しが届くのを待っていたところ、六日付の同紙に『上奏文』はそのまま掲載された。
 驚いた沢田は新聞社へ急行し、問題の記者へ抗議した。すると相手は、沢田の話はそのまま主任記者へ伝えたが、主任が言うには「文書はすでに他の新聞社も入手している可能性が高く、他社に出し抜かれないよう掲載を急げ」と指示されたとのことであった。
 返す刀で記者君は、「当社は“記事は記事として”出所を明らかにした」ことや、社説欄において「この文書が日本政府の公式見解ではない」旨も並記しており、日本の立場を擁護ようごしたつもりであると返してきた。さらに「もし大使館側が“打ち消し”の声明を出すならば、喜んでそれを掲載しよう」と持ち掛けてきたので、その通り申し入れて引き揚げた。

 コミンテルンの機関誌云々はともかくとして、詳しいいきさつなど何も知らないイギリスの一般読者が「上奏文」を知るにいたったのは、これが最初のこととなる。人間の認識には「第一印象」が最も色濃く焼き付くもので、最初の印象を後になってからいくら打ち消したところで、“何もなかった”ことにはできない。ましていまは満洲事変の真っ最中だ。言葉の上で打ち消そうにも、「まさにいま、目の前で起こっているではないか」と言われればぐうの音も出ない。
 「田中上奏文」がひとり歩きをはじめるには、絶好のタイミングであった。

 今日こんにちでさえ左派の論者や一部外国筋には依然「上奏文」の神話がささやかれる向きがある。彼らが信じ込んだ「伝説」にはこういう出自しゅつじがあるということに、注意を促したい。
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