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第八章理事会前夜

第八章第十六節(ライヒマン)

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                十六

 九月のときと同様、十月理事会に関する各地の新聞論調は割れた。

 英国や米国では相変わらず賛否両論が入り交じったが、フランスやイタリアの新聞は総じて民国側の条約破りを非難して日本へ好意的な記事を載せた。対してドイツの新聞界は、こぞって親中路線をつらぬき日本だたきの論調が目立った。
 第一次大戦に負けてヨーロッパ諸国から“つんぼ桟敷さじき”に置かれたドイツと、革命政権であるが故に敬遠された中華民国は一九二〇年代を通して“同類相憐どうるいあいあわれむ”関係を築き上げた。双方とも極度の財政難に見舞われたこともあって、 “物々交換ぶつぶつこうかん”による交易を行ったという。
 二十一世紀を迎えた今でも、ヨーロッパ諸国の中で飛びぬけてドイツが“親中”なのは、この頃の縁が今に続いていると言ってよかろう。

 ここで新聞の話を持ち出したのは、ジュネーブの地元新聞である『ジュルナル・ド・ジュネーブ』紙について語りたかったからである。
 北京の華字紙を引用しつつ事変の第一報を伝えた同紙は、一貫して日本に批判的な論調を展開した。スイスの新聞がすべてがそうだったのではなく、聯盟事務局の意見を色濃く反映する同紙だけが、突出して反日的だった。
 日本側はその背後に、聯盟の保健部長として上海に常駐するルドヴィク・ライヒマンの影響を見て取った。

 第二次大戦後に国際連合児童基金、通称『ユニセフ』を創設するこの人物は、ワルシャワ生まれのユダヤ系ポーランド人だ。この年の八月に起こった揚子江ようすこう氾濫はんらんで家を追われた数百万人におよぶ難民の救済を目的に、聯盟から派遣されてきた。
 かつてワルシャワの衛生司長だったが、国家元首のユゼフ・ピウスツキーが首相に就任した際、政治信条が正反対だったためにその地位を追われたという。二十代で共産主義に目覚め、ヨーロッパ各国を行き来しながら積極的な活動に従事したともされているが、そうした経歴があるからといってライヒマンの行状をコミンテルンの策動に結び付ける証拠は、今のところ見当たらない。

 ともあれライヒマンは聯盟事務局に籍を置く身でありながら、南京の行政院副院長である宋子文そうしぶんとともに「欧亜無線電台」の事務所にベッドを持ち込み、起居ききょをともにしてまで地元華字紙の記事から長文の電報をしたため、連日ジュネーブへ宛て送ってきた。
 それらの電報が事務局内でどう“取り扱われるか”を熟知した者ならではの裏技うらわざで、実際、ライヒマンの“告げ口”は聯盟内にかなりの影響をおよぼした。
 しかも、それにかかった電報代はすべて民国持ちで、上海の中央銀行※幹部などは、九月と十月の電報代が計約十二万米ドルに上ったと漏らした。
 南京辺りでは、「王正廷おうせいてい外交部長の辞任後、空白となった席を実質的に占めているのはライヒマンだ」とも噂された。
 ※中華民国には“銀行の銀行”という意味での中央銀行が存在しなかった。ここでい う「中央銀行」とは、上海にかつてあった“中央”という名称の商業銀行。

 彼の公平性を欠いた行状ぎょうじょうは、九月理事会の頃からすでに露骨だった。日本側は何度も聯盟へ改善を求めたが、その態度は一向に改まらなかった。そればかりか、十月理事会の後半になると情報部長のコメールまでが、「聯盟は対日経済封鎖を検討している」とか「各国が駐日外交官の引き揚げを準備している」など風説を振りまき、日本はもちろん他の加盟諸国からも不興ふきょうを買った。
 日本の外務省も大概たいがいなものだが、聯盟事務局側の不始末にもほどがある。これらのことが伝わって、日本の「聯盟不信」の声は一層高まっていく。
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