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第八章理事会前夜

第八章第七節(松平大使2)

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                 七

 老外相が人知れずにこぶしおろしたのを見て取るや、今度は松平から水を向けてみた。
「聞くところによりますと、外相が最もご懸念をいだかれているのは鉄道問題で日本側が裏に何らか魂胆をかかえているのではないか--、とのことのように見受けられますが……」

 いかにもその通り。パリではついぞこの疑念を晴らすことができなかった。では松平大使ならば納得のいく回答をしてくれるとでもいうのだろうか? 
 レディング外相は松平の問いかけにコクリとうなずき、先を促した。
「日本政府がこの機に新たな要求を持ち出すなど、断じてありません。ただ、旧奉天政府は適法に批准ひじゅんされた条約すら遵守せず、国と国との間の取り決めを無視して満鉄の息の根を止めるような競争線を敷設ふせつし続けてきたのです。それ故、満洲における鉄道の問題は避けて通れない重要な懸案なのです」

 鉄道の重要性についてはジュネーブの芳澤理事からも何度か聞かされ、理解はしているつもりだった。だが先に軍隊を出動させておいて「さあ協議しよう」というのでは、いかにも威圧的だと言わざるを得ない。何よりいかんのは、九月の段階で日本側がそのことに一切触れなかったことではないのか。また日本人の習い性として、話を小出こだしに、小出しにしてくる癖がある。それが我々ヨーロッパ人には、あたかも裏に何かを隠しているように映ってしまうのだ。我々が彼ら東洋人に抱く疑念の大もとはそこにある。
 レディングは頭の中を整理して、自分の考えに狂いがないのを確かめた。

「日本は正当かつ寛容な態度をもってこの問題に取り組み、だいたい双方に都合のいい協定を結ぼうと働きかけてきました。ところが近年になって奉天側は話し合いにすら応じようとしなくなったのです。これを元の状態に戻して協議を進めようというのが、日本側の意図なのです」
 そう言って、松平は紙に満鉄と競争線の概略図を描いた。彼の話はジュネーブで芳澤から聞かされたものとさして変わらなかったが、この絵だけはこの会談における唯一の収穫物しゅうかくぶつと言って良さそうだ。

 日本側が何と言おうとも、今回のようなやり方はやはりうなずけない。だが自分を含めた聯盟の理事たちが満洲の地理にうといのも、また事実である。こうして図面を見ながら話を聞いてみると、確かに彼らの鉄道が危機にさらされてきたとの主張にも一理あると見てよかろう。
 考えてみれば、聯盟側も理念上の問題にこだわり過ぎた嫌いがないでもない。ここはいったん松平の話を引き取っておくのも悪くはないかも知れない。表立ってこぶしを振り回さなかったのは幸いだった--。レディング外相は人知れず胸をなでおろした。

「まあいずれセシル代表が帰国したら、理事会閉会後のことも含めて良く話し合うこととしましょう。その際には貴大使とも密接に連絡を取り合うことにしたいと考えます」
 ジュネーブでは危うく崩れかけた日英関係だったが、やはり母国に戻ってみると旧来の親密さを取り戻した感がある。それが松岡のいう“聯盟病”のからから抜け出したことを意味するのかまでは、当事者たちにも分かるすべはなかった。
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