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第八章理事会前夜
第八章第六節(松平大使1)
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六
日本政府が「声明」を発した十月二十六日、本国に戻ったレディング外相の許へ松平大使がやってきた。
ジュネーブへ発つ前とは打って変わり、この日の老外相はあきらかに不機嫌だった。英国人らしい婉曲な言い回しで、「五大綱」内容に関する外務本省側の情報漏洩を非難した。ついには「多大なる迷惑を被った」と不平すら漏らした。
「日本の国内においては様々な議論があって、政府としてのお立場というものもあるのでしょう。しかし……」
よほど腹に据えかねたのだろう。外相のお小言はなおも続いた。
「我々のような局外の者にとっては、これまでもっとも忠実に聯盟の活動を支援してきた日本が、こと自国の利益に関わることになると聯盟の立場など一切顧みないという印象を拭えません」
まったく本省の粗相では日本側にいささかも弁明の余地はない。松平は「新聞漏洩の件は自分もまことに遺憾に堪えません。芳澤理事も即座に東京へ厳重注意を促した次第です」と返すばかりだった。
「ただ……」
外相の立腹はもっともで、いかなる申し開きもするつもりはない。しかしだからといって、「はいそうですか」と引き下がっただけでは彼も仕事をしたことにならない。これから話すことが“釈明”となるのか、“居直り”と取られるのかは定かでないが、彼なりに感ずるところを表明しておかないと、外交にはならない。
「撤兵を巡る議論に関して、聯盟はやや簡単に物事を考えているように思われます」
無心に放ったひと言が、ちょっとしたポテンヒットとなった。思わぬ反論を受けた老外相は、やや面食らった顔をした。
「小官もかつてシベリア出兵に際し、現地で事情をつぶさに見た経験があります。日本軍と赤露軍が衝突し、今日の事態とよく似た状況に陥りました。当時、日本政府は国際輿論への配慮から軍へ撤兵を求めたのですが、軍隊というものは一度衝突が起こると自衛の必要もあって、そう簡単に退けなくなるものなのです」
外相の側もこの発言をどう受け取ったらいいのか、判断に迷った。確かにかつてインド総督を務めた経験から、松平の言うことに思い当たるところがないでもない。腹立ちまぎれに表立って拳を振り上げなかったのは幸いであった。
「いやしくも中華民国がひとつの独立国家であるならば、他国との紛争や紛議に直面した際に先ずは相手国とでき得る限り、平和的な手段を通じて問題の解決に尽くすべきです。その交渉がこじれて万策尽きたときにいたって初めて、聯盟へ訴え出るのが本筋なはずです。そうした努力も払わずに、すぐさま聯盟へ提訴してくるのでは、今後日華の間に生じることあるごとに聯盟が担ぎ出されることになるのではないでしょうか……」
今回の理事会において日本側が聯盟へ見せた態度は、決して容認できるものではない。かといって、今の路線のまま進んで行けば確かに松平が指摘する事態を招きかねない。聯盟としても加盟国間の紛議をいくつも抱えていられる訳ではない。だが……。
「その点はごもっともですが、条約上の権利のないところへ軍隊を出動させるということ自体が、局外のものにはどうしても納得でき兼ねるのです」
「自国の治安を自力で維持できないような国にあっては、それもやむを得ないのではないでしょうか。現に英国が上海に二千以上の軍隊を駐兵させているという事実も、何ら条約上の権利に基づく行為ではありません。民国政府からいつ苦情を申し立てられてもおかしくはない」
いつの間にか形勢をひっくり返されてしまった状況に、本心では「盗人猛々しい」と毒づきたかったが、それに見合う“外交的”な言辞はついぞ思いつかなかった。
日本政府が「声明」を発した十月二十六日、本国に戻ったレディング外相の許へ松平大使がやってきた。
ジュネーブへ発つ前とは打って変わり、この日の老外相はあきらかに不機嫌だった。英国人らしい婉曲な言い回しで、「五大綱」内容に関する外務本省側の情報漏洩を非難した。ついには「多大なる迷惑を被った」と不平すら漏らした。
「日本の国内においては様々な議論があって、政府としてのお立場というものもあるのでしょう。しかし……」
よほど腹に据えかねたのだろう。外相のお小言はなおも続いた。
「我々のような局外の者にとっては、これまでもっとも忠実に聯盟の活動を支援してきた日本が、こと自国の利益に関わることになると聯盟の立場など一切顧みないという印象を拭えません」
まったく本省の粗相では日本側にいささかも弁明の余地はない。松平は「新聞漏洩の件は自分もまことに遺憾に堪えません。芳澤理事も即座に東京へ厳重注意を促した次第です」と返すばかりだった。
「ただ……」
外相の立腹はもっともで、いかなる申し開きもするつもりはない。しかしだからといって、「はいそうですか」と引き下がっただけでは彼も仕事をしたことにならない。これから話すことが“釈明”となるのか、“居直り”と取られるのかは定かでないが、彼なりに感ずるところを表明しておかないと、外交にはならない。
「撤兵を巡る議論に関して、聯盟はやや簡単に物事を考えているように思われます」
無心に放ったひと言が、ちょっとしたポテンヒットとなった。思わぬ反論を受けた老外相は、やや面食らった顔をした。
「小官もかつてシベリア出兵に際し、現地で事情をつぶさに見た経験があります。日本軍と赤露軍が衝突し、今日の事態とよく似た状況に陥りました。当時、日本政府は国際輿論への配慮から軍へ撤兵を求めたのですが、軍隊というものは一度衝突が起こると自衛の必要もあって、そう簡単に退けなくなるものなのです」
外相の側もこの発言をどう受け取ったらいいのか、判断に迷った。確かにかつてインド総督を務めた経験から、松平の言うことに思い当たるところがないでもない。腹立ちまぎれに表立って拳を振り上げなかったのは幸いであった。
「いやしくも中華民国がひとつの独立国家であるならば、他国との紛争や紛議に直面した際に先ずは相手国とでき得る限り、平和的な手段を通じて問題の解決に尽くすべきです。その交渉がこじれて万策尽きたときにいたって初めて、聯盟へ訴え出るのが本筋なはずです。そうした努力も払わずに、すぐさま聯盟へ提訴してくるのでは、今後日華の間に生じることあるごとに聯盟が担ぎ出されることになるのではないでしょうか……」
今回の理事会において日本側が聯盟へ見せた態度は、決して容認できるものではない。かといって、今の路線のまま進んで行けば確かに松平が指摘する事態を招きかねない。聯盟としても加盟国間の紛議をいくつも抱えていられる訳ではない。だが……。
「その点はごもっともですが、条約上の権利のないところへ軍隊を出動させるということ自体が、局外のものにはどうしても納得でき兼ねるのです」
「自国の治安を自力で維持できないような国にあっては、それもやむを得ないのではないでしょうか。現に英国が上海に二千以上の軍隊を駐兵させているという事実も、何ら条約上の権利に基づく行為ではありません。民国政府からいつ苦情を申し立てられてもおかしくはない」
いつの間にか形勢をひっくり返されてしまった状況に、本心では「盗人猛々しい」と毒づきたかったが、それに見合う“外交的”な言辞はついぞ思いつかなかった。
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