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第八章理事会前夜

第八章第五節(聯盟病)

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                 五
 
 「実に奇態きたいなことには、聯盟でみんなが寄って議論をすると一種の聯盟空気の中で議論する。(中略)あれはジュネーブに行くというと聯盟病れんめいびょうというものにかかる」

 昭和八年二月二十四日に開かれた国際聯盟総会の議場で、脱退を宣言する歴史的な演説とともに議場を後にした松岡洋右まつおかようすけ全権は、大毎・東日の共催で翌年二月二十二日に開かれた講演会に臨んでそう発言した。松岡の言う“聯盟病”とは何だったのか--。
 講演の中で彼はこう語る。

 「例えば日本の満洲に関する行動及び主張はくまで反対であるというようにっている人が多い。ところが聯盟をって、そういうことを言ってござった代表者たちが本国に帰ってその同じ人とひざを突き合わして話すと今度は調子が違う。あれはどうも日本もあの時は無理はなかったという話が出る。これが人間というものであります。(中略)同じ人間でもジュネーブに来て聯盟の中で議論する時と、その人が本国に帰って、本国の外務大臣となって私たちと膝を突き合わせて話す時とはその調子が違う」

 思えばロンドンの松平恒雄まつだいらつねお大使へ向けては手放しに胸襟きょうきんを開いて見せたり、民国側の魂胆こんたんを見抜いてうなずき合ったはずのレディング外相が、ジュネーブへ行って芳澤と対面した際にはまるで別人のようになっていた。あるいは十月の理事会運営でどこまでも日本へ強硬な姿勢を崩さなかったブリアン議長やドラモンド総長も、理事会で孤立無援こりつむえんとなりかけた日本代表部へすくいの手を伸ばすべく、フランス外務省を動かして駐日大使を通じた打開策の交渉を試みた。

 これら“奇態きたい”な出来ごとも、松岡の言う“聯盟病”ととらえればうなずけるものがある。だが物事ものごとに“おもて”と“うら”があるということは、ある局面で見せる “救い”の顔も、別の局面では“落とし穴”になるということだ。十月理事会の開催につながった錦州爆撃事件を裏で“あおった”のがフランスであったとするならば、ブリアンが見せた“救世主”の顔も、まったくの「マッチポンプ」だったことになる。
 真相はさだかでないが、外交にはそういうものがつきまとうのであろう……。
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