143 / 466
第八章理事会前夜
第八章第三節(立場)
しおりを挟む
三
ところで「十三対一」の結果を受けた東京は、というと……。
不成立となった決議案に法的拘束力はないとはいえ、理事会の俎上に上った以上、世界の輿論に与える影響は大きい。このままにはしておけないとの危機感は、政府の側にももちろんあった。理事会が閉幕した翌日の二十五日午後二時、政府首脳は日曜日にかかわらず緊急閣議を開いた。
だがここまでが“同床”で、ここからは“異夢”となる。
芳澤たちの脳裏に常時「聯盟」があったのと同じくらい、東京の政府の念頭には「民国政府」があった。ジュネーブで戦う身にしてみれば、聯盟の顔を立てつつ一人でも多くを味方につけるのが最も賢い戦い方となるが、華人相手の交渉の上で、それは「聯盟の圧力に屈した」姿に映る。長年の経験から、相手に弱みを見せれば必ずそこにつけ込まれるのは学習済みだ。それだけは何としても避けねばならなかった。
そうした事情もあって、幣原外相は早々に聯盟へ見切りをつけた。聯盟が民国の宣伝工作に乗せられて、ここまで事態を悪化させてしまった以上、もはや理事会など頼むに足らないという訳である。
「立場変われば人変わる」--。サラリーマンなら一度は耳にしたことのある言葉だが、ジュネーブと東京の“立場”の違いは「国益」まで左右してしまった。
こじれた係争で結局勝つのは声の大きな者である。ちまちま聯盟など通さずに、世界の輿論に日本の立場を直接訴えかけた方がいい。それが政府の導き出した答えであった。閣議は新たな声明を発することに一決した。
「一、事変の責任はあくまで民国側にあり、日本軍の行動は緊急の自衛権行使にほかならない。
二、聯盟の九月三十日決議を引き続き尊重し、事変解決に向けて民国との直接交渉に努力する。ただし、十月二十四日決議は国際法上何ら拘束力を持たない。
三、日本軍の鉄道付属地外出動は決して保障占領ではなく、鉄道および在留邦人、軍自身の安全が確保されたら速やかに撤兵する。
四、両国の民心を和らげ外交を正常に戻すため、以下の基本的原則に関する大綱協定の締結を図るべく直接交渉を開始すべきである」
十月二十六日付でこの声明を世界の公論へ向け発信したが、日本の政府はつくづく情勢を読み取る力量に恵まれなかったようだ。“開き直り”とも取れるこの声明はむしろ欧米諸国の不興を買って、聯盟における日本の立場を一層窮地へと追いやった。
ちなみに上述の趣旨の声明を発信すべきと具申したのは、パリの栗山茂代理大使だとの記録がある。代理大使の具申を閣議が鵜呑みにしたか否かは、定かでない……。いずれにせよ、かくて東京の常識は世界の非常識となっていく。
聯盟を相手に正面切って対決姿勢を見せた日本政府とは対照的に、民国側は嫌味なほど聯盟へ従順な態度を示した。施肇基代表はブリアン議長へ公文書簡を送り、「本国政府の訓令に従って、以下のことを声明する」と公約した。
「中華民国は他の聯盟諸国と同様に、『条約に定められたすべての義務に対し細心の敬意を払う』という規約を遵守するものである」
平たく言えば、日本側が声高に叫ぶ「条約違反の常習犯」とのレッテルに上書きをして、「これからはちゃんと条約に従いますよ」とアピールしてきた。
常態化する民国の条約違反に不満を募らせていたのは日本だけではなかったから、中華大陸に権益を持つヨーロッパ諸国は「公約が実行されるか否かは別として、兎にも角にも言質を取った」という訳で、これを歓迎した。ドラモンド総長なども杉村公使へ向けて、「民国側がどうしてこんな思い切ったことをしてきたのか理解に苦しむものの、この際、日本側も彼らの公約を利用して攻勢に打ってでてはどうか」と持ち掛けてきたほどである。
聯盟相手に着実にポイントを稼いく民国政府とは対照的に、今や“ヒール役”へと堕した日本政府は極めてマイペースだった。幣原外相は、「従来から民国は国際会議などの場でこの種の声明を出しながら、一向に実行しようとしない。我が国としてはあくまで直接交渉を通じて、具体的に条約の一つひとつの実行をひざ詰めで確約させねば安心などできない」と斬って捨てた。
「これなら相手はぐうの音も出まい」と、芳澤が持ち出した「条約尊重論」だったが、予想外の展開へともつれ込み、ますます話をややこしくしてしまった。
ところで「十三対一」の結果を受けた東京は、というと……。
不成立となった決議案に法的拘束力はないとはいえ、理事会の俎上に上った以上、世界の輿論に与える影響は大きい。このままにはしておけないとの危機感は、政府の側にももちろんあった。理事会が閉幕した翌日の二十五日午後二時、政府首脳は日曜日にかかわらず緊急閣議を開いた。
だがここまでが“同床”で、ここからは“異夢”となる。
芳澤たちの脳裏に常時「聯盟」があったのと同じくらい、東京の政府の念頭には「民国政府」があった。ジュネーブで戦う身にしてみれば、聯盟の顔を立てつつ一人でも多くを味方につけるのが最も賢い戦い方となるが、華人相手の交渉の上で、それは「聯盟の圧力に屈した」姿に映る。長年の経験から、相手に弱みを見せれば必ずそこにつけ込まれるのは学習済みだ。それだけは何としても避けねばならなかった。
そうした事情もあって、幣原外相は早々に聯盟へ見切りをつけた。聯盟が民国の宣伝工作に乗せられて、ここまで事態を悪化させてしまった以上、もはや理事会など頼むに足らないという訳である。
「立場変われば人変わる」--。サラリーマンなら一度は耳にしたことのある言葉だが、ジュネーブと東京の“立場”の違いは「国益」まで左右してしまった。
こじれた係争で結局勝つのは声の大きな者である。ちまちま聯盟など通さずに、世界の輿論に日本の立場を直接訴えかけた方がいい。それが政府の導き出した答えであった。閣議は新たな声明を発することに一決した。
「一、事変の責任はあくまで民国側にあり、日本軍の行動は緊急の自衛権行使にほかならない。
二、聯盟の九月三十日決議を引き続き尊重し、事変解決に向けて民国との直接交渉に努力する。ただし、十月二十四日決議は国際法上何ら拘束力を持たない。
三、日本軍の鉄道付属地外出動は決して保障占領ではなく、鉄道および在留邦人、軍自身の安全が確保されたら速やかに撤兵する。
四、両国の民心を和らげ外交を正常に戻すため、以下の基本的原則に関する大綱協定の締結を図るべく直接交渉を開始すべきである」
十月二十六日付でこの声明を世界の公論へ向け発信したが、日本の政府はつくづく情勢を読み取る力量に恵まれなかったようだ。“開き直り”とも取れるこの声明はむしろ欧米諸国の不興を買って、聯盟における日本の立場を一層窮地へと追いやった。
ちなみに上述の趣旨の声明を発信すべきと具申したのは、パリの栗山茂代理大使だとの記録がある。代理大使の具申を閣議が鵜呑みにしたか否かは、定かでない……。いずれにせよ、かくて東京の常識は世界の非常識となっていく。
聯盟を相手に正面切って対決姿勢を見せた日本政府とは対照的に、民国側は嫌味なほど聯盟へ従順な態度を示した。施肇基代表はブリアン議長へ公文書簡を送り、「本国政府の訓令に従って、以下のことを声明する」と公約した。
「中華民国は他の聯盟諸国と同様に、『条約に定められたすべての義務に対し細心の敬意を払う』という規約を遵守するものである」
平たく言えば、日本側が声高に叫ぶ「条約違反の常習犯」とのレッテルに上書きをして、「これからはちゃんと条約に従いますよ」とアピールしてきた。
常態化する民国の条約違反に不満を募らせていたのは日本だけではなかったから、中華大陸に権益を持つヨーロッパ諸国は「公約が実行されるか否かは別として、兎にも角にも言質を取った」という訳で、これを歓迎した。ドラモンド総長なども杉村公使へ向けて、「民国側がどうしてこんな思い切ったことをしてきたのか理解に苦しむものの、この際、日本側も彼らの公約を利用して攻勢に打ってでてはどうか」と持ち掛けてきたほどである。
聯盟相手に着実にポイントを稼いく民国政府とは対照的に、今や“ヒール役”へと堕した日本政府は極めてマイペースだった。幣原外相は、「従来から民国は国際会議などの場でこの種の声明を出しながら、一向に実行しようとしない。我が国としてはあくまで直接交渉を通じて、具体的に条約の一つひとつの実行をひざ詰めで確約させねば安心などできない」と斬って捨てた。
「これなら相手はぐうの音も出まい」と、芳澤が持ち出した「条約尊重論」だったが、予想外の展開へともつれ込み、ますます話をややこしくしてしまった。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
キングダム・バルカ〜秦に悪夢をもたらした男〜
貴城 宗
歴史・時代
時は春秋戦国、舞台は中国。
戦国七雄の最強国秦に己の故郷を滅ぼされ唯一の肉親をも殺された少年は秦に復讐を誓う。
これはとある少年が屍山血河の戦乱の世を生き抜き抗争を繰り返す蛮族達を初めてひとつにまとめあげ白起、廉頗、王騎ら時代が生んだ傑物達を蹴散らし秦国最大の敵とまで呼ばれた最強の将軍へと成り上がっていく物語。
夜に咲く花
増黒 豊
歴史・時代
2017年に書いたものの改稿版を掲載します。
幕末を駆け抜けた新撰組。
その十一番目の隊長、綾瀬久二郎の凄絶な人生を描く。
よく知られる新撰組の物語の中に、架空の設定を織り込み、彼らの生きた跡をより強く浮かび上がらせたい。
子連れ同心捕物控
鍛冶谷みの
歴史・時代
定廻り同心、朝倉文四郎は、姉から赤子を預けられ、育てることになってしまった。肝心の姉は行方知れず。
一人暮らしの文四郎は、初めはどうしたらいいのかわからず、四苦八苦するが、周りの人たちに助けられ、仕事と子育ての両立に奮闘する。
この子は本当に姉の子なのか、疑問に思いながらも、姉が連れてきた女の赤子の行方を追ううちに、赤子が絡む事件に巻き込まれていく。
文四郎はおっとりしているように見えて、剣の腕は確かだ。
赤子を守りきり、親の元へ返すことはできるのか。
※人情物にできたらと思っていましたが、どうやら私には無理そうです泣。
同心vs目付vs?の三つ巴バトル
パスカルからの最後の宿題
尾方佐羽
歴史・時代
科学者、哲学者として有名なパスカルが人生の最後に取り組んだ大仕事は「パリの街に安価な乗合馬車」を走らせることだった。彼が最後の仕事に託した思いは何だったのか。親友のロアネーズ公爵は彼の思考のあとを追う。
日本国転生
北乃大空
SF
女神ガイアは神族と呼ばれる宇宙管理者であり、地球を含む太陽系を管理して人類の歴史を見守ってきた。
或る日、ガイアは地球上の人類未来についてのシミュレーションを実施し、その結果は22世紀まで確実に人類が滅亡するシナリオで、何度実施しても滅亡する確率は99.999%であった。
ガイアは人類滅亡シミュレーション結果を中央管理局に提出、事態を重くみた中央管理局はガイアに人類滅亡の回避指令を出した。
その指令内容は地球人類の歴史改変で、現代地球とは別のパラレルワールド上に存在するもう一つの地球に干渉して歴史改変するものであった。
ガイアが取った歴史改変方法は、国家丸ごと転移するもので転移する国家は何と現代日本であり、その転移先は太平洋戦争開戦1年前の日本で、そこに国土ごと上書きするというものであった。
その転移先で日本が世界各国と開戦し、そこで起こる様々な出来事を超人的な能力を持つ女神と天使達の手助けで日本が覇権国家になり、人類滅亡を回避させて行くのであった。
飛翔英雄伝《三國志異聞奇譚》〜蒼天に誓う絆〜
銀星 慧
歴史・時代
約1800年前に描かれた、皆さんご存知『三國志』
新たな設定と創作キャラクターたちによって紡ぎ出す、全く新しい『三國志』が今始まります!
《あらすじ》
曹家の次女、麗蘭(れいらん)は、幼い頃から活発で勇敢な性格だった。
同じ年頃の少年、奉先(ほうせん)は、そんな麗蘭の従者であり護衛として育ち、麗蘭の右腕としていつも付き従っていた。
成長した二人は、近くの邑で大蛇が邑人を襲い、若い娘がその生贄として捧げられると言う話を知り、娘を助ける為に一計を謀るが…
『三國志』最大の悪役であり、裏切り者の呂布奉先。彼はなぜ「裏切り者」人生を歩む事になったのか?!
その謎が、遂に明かされる…!
※こちらの作品は、「小説家になろう」で公開していた作品内容を、新たに編集して掲載しています。
忘却の艦隊
KeyBow
SF
新設された超弩級砲艦を旗艦とし新造艦と老朽艦の入れ替え任務に就いていたが、駐留基地に入るには数が多く、月の1つにて物資と人員の入れ替えを行っていた。
大型輸送艦は工作艦を兼ねた。
総勢250艦の航宙艦は退役艦が110艦、入れ替え用が同数。
残り30艦は増強に伴い新規配備される艦だった。
輸送任務の最先任士官は大佐。
新造砲艦の設計にも関わり、旗艦の引き渡しのついでに他の艦の指揮も執り行っていた。
本来艦隊の指揮は少将以上だが、輸送任務の為、設計に関わった大佐が任命された。
他に星系防衛の指揮官として少将と、退役間近の大将とその副官や副長が視察の為便乗していた。
公安に近い監査だった。
しかし、この2名とその側近はこの艦隊及び駐留艦隊の指揮系統から外れている。
そんな人員の載せ替えが半分ほど行われた時に中緊急警報が鳴り、ライナン星系第3惑星より緊急の救援要請が入る。
機転を利かせ砲艦で敵の大半を仕留めるも、苦し紛れに敵は主系列星を人口ブラックホールにしてしまった。
完全にブラックホールに成長し、その重力から逃れられないようになるまで数分しか猶予が無かった。
意図しない戦闘の影響から士気はだだ下がり。そのブラックホールから逃れる為、禁止されている重力ジャンプを敢行する。
恒星から近い距離では禁止されているし、システム的にも不可だった。
なんとか制限内に解除し、重力ジャンプを敢行した。
しかし、禁止されているその理由通りの状況に陥った。
艦隊ごとセットした座標からズレ、恒星から数光年離れた所にジャンプし【ワープのような架空の移動方法】、再び重力ジャンプ可能な所まで移動するのに33年程掛かる。
そんな中忘れ去られた艦隊が33年の月日の後、本星へと帰還を目指す。
果たして彼らは帰還できるのか?
帰還出来たとして彼らに待ち受ける運命は?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる