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第八章理事会前夜

第八章第三節(立場)

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                 三

 ところで「十三対一」の結果を受けた東京は、というと……。

 不成立となった決議案に法的拘束力はないとはいえ、理事会の俎上そじょうあがった以上、世界の輿論に与える影響は大きい。このままにはしておけないとの危機感は、政府の側にももちろんあった。理事会が閉幕した翌日の二十五日午後二時、政府首脳は日曜日にかかわらず緊急閣議を開いた。

 だがここまでが“同床”で、ここからは“異夢”となる。
 芳澤たちの脳裏に常時「聯盟」があったのと同じくらい、東京の政府の念頭には「民国政府」があった。ジュネーブで戦う身にしてみれば、聯盟の顔を立てつつ一人でも多くを味方につけるのが最も賢い戦い方となるが、華人相手の交渉の上で、それは「聯盟の圧力に屈した」姿に映る。長年の経験から、相手に弱みを見せれば必ずそこにつけ込まれるのは学習済みだ。それだけは何としても避けねばならなかった。

 そうした事情もあって、幣原外相は早々に聯盟へ見切りをつけた。聯盟が民国の宣伝工作に乗せられて、ここまで事態を悪化させてしまった以上、もはや理事会など頼むに足らないという訳である。
 「立場変わればひと変わる」--。サラリーマンなら一度は耳にしたことのある言葉だが、ジュネーブと東京の“立場”の違いは「国益」まで左右してしまった。

 こじれた係争で結局勝つのは声の大きな者である。ちまちま聯盟など通さずに、世界の輿論に日本の立場を直接訴えかけた方がいい。それが政府の導き出した答えであった。閣議は新たな声明を発することに一決した。

 「一、事変の責任はあくまで民国側にあり、日本軍の行動は緊急の自衛権行使にほかならない。
 二、聯盟の九月三十日決議を引き続き尊重し、事変解決に向けて民国との直接交渉に努力する。ただし、十月二十四日決議は国際法上何ら拘束力を持たない。
 三、日本軍の鉄道付属地外出動は決して保障占領ではなく、鉄道および在留邦人、軍自身の安全が確保されたら速やかに撤兵する。
 四、両国の民心を和らげ外交を正常に戻すため、以下の基本的原則に関する大綱協定の締結を図るべく直接交渉を開始すべきである」

 十月二十六日付でこの声明を世界の公論へ向け発信したが、日本の政府はつくづく情勢を読み取る力量に恵まれなかったようだ。“開き直り”とも取れるこの声明はむしろ欧米諸国の不興ふきょうを買って、聯盟における日本の立場を一層窮地きゅうちへと追いやった。
 ちなみに上述の趣旨の声明を発信すべきと具申したのは、パリの栗山茂くりやましげる代理大使だとの記録がある。代理大使の具申を閣議が鵜呑うのみにしたか否かは、定かでない……。いずれにせよ、かくて東京の常識は世界の非常識となっていく。

 聯盟を相手に正面切って対決姿勢を見せた日本政府とは対照的に、民国側は嫌味いやみなほど聯盟へ従順な態度を示した。施肇基しちょうき代表はブリアン議長へ公文書簡を送り、「本国政府の訓令に従って、以下のことを声明する」と公約した。

 「中華民国は他の聯盟諸国と同様に、『条約に定められたすべての義務に対し細心の敬意を払う』という規約を遵守するものである」

 平たく言えば、日本側が声高こわだかに叫ぶ「条約違反の常習犯」とのレッテルに上書きをして、「これからはちゃんと条約に従いますよ」とアピールしてきた。
 常態化する民国の条約違反に不満をつのらせていたのは日本だけではなかったから、中華大陸に権益を持つヨーロッパ諸国は「公約が実行されるか否かは別として、にもかくにも言質げんちを取った」という訳で、これを歓迎した。ドラモンド総長なども杉村公使へ向けて、「民国側がどうしてこんな思い切ったことをしてきたのか理解に苦しむものの、この際、日本側も彼らの公約を利用して攻勢に打ってでてはどうか」と持ち掛けてきたほどである。

 聯盟相手に着実にポイントをかせいく民国政府とは対照的に、今や“ヒール役”へとした日本政府は極めてマイペースだった。幣原外相は、「従来から民国は国際会議などの場でこの種の声明を出しながら、一向に実行しようとしない。我が国としてはあくまで直接交渉を通じて、具体的に条約の一つひとつの実行をひざめで確約させねば安心などできない」とって捨てた。
 
 「これなら相手はぐうの音も出まい」と、芳澤が持ち出した「条約尊重論」だったが、予想外の展開へともつれ込み、ますます話をややこしくしてしまった。
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